雇用の安全網整備が急務

大阪大学社会経済研究所 大竹文雄
(『経済教室』日本経済新聞社2001年2月19日掲載)

環境変化速いが訓練には時間も

 21世紀には情報技術(IT)革命やグローバル化が進展し、経済環境はますます速く変化していく。ITは情報費用の劇的な低下を通じ競争促進の環境を生む。グローバル化は、各国の比較優位を生かした製品やサービスを日本国内に入り込ませる
 両者とも市場経済の一層の進展に寄与する。市場経済の進展により、より効率的な生産活動や消費活動が行われることになるという点では、我々の生活は豊かになる。
 しかし、競争の激化には負の側面が伴う。技術革新の加速やIT化は、競争を激化させ、企業や個人の特定の技能の寿命を短期化させる可能性がある。競争の激化により競争に勝ち残った人と負けてしまった人の間に大きな格差がつく。また、急激に進むグローバル化は、日本国内で求められる労働者のタイプを大幅に変える結果、雇用のミスマッチを助長する。その過程では賃金格差の拡大も懸念される。
 こうした格差拡大に直面した労働者は、大きな雇用不安を抱えることになる。雇用不安の拡大は、犯罪や自殺者の増加という深刻な影響を社会に与えるだけではなく、消費の沈滞化を通じて経済活動そのものにも悪影響を与えかねない。
 雇用不安に直面した人々は、その一因となったグローバル化や規制緩和政策そのものに反対するであろう。確かに、様々な参入障壁に守られてきた産業では、参入制限による超過利潤(レント)を得ていた。参入制限の緩和や撤廃による競争激化の結果、企業の競争力がなくなった場合には、解雇や賃金カットを受け入れるということになる。
 しかし、競争の激化は、今までレントを受けていた人々にレントを失うというデメリットをもたらすだけではない。参入制限のために雇用が過小であった産業分野で新たに雇用が発生するというメリットがある。同じようにグローバル化によって、消費者の多くは今までよりも安くて良質な製品を享受できるようになる。
 競争の激化によって、倒産や解雇もより頻繁に生じるようになる。その場合に、解雇が少ないという形で雇用不安を防いできた制度の下では、解雇が少し増えただけで雇用不安は非常に大きくなる。
 解雇を抑制するシステムが存在する中で、技術革新、国際競争の激化、規制緩和という永続的なショックが生じた際には、労働者の転職が難しい分、その衝撃に対応するのに時間と費用がかかる。
 そのうえ、経済環境の変化が速まるのに、人間の教育訓練にかかる時間はなかなか短くならない。両者の差が開くとその時の経済環境にたまたま適した能力をもっている人とそうでない人の格差が拡大する。

能力開発支援や社会保障改善で

技術革新の急進展や国際競争の激化、規制緩和とともに雇用不安の悪影響を防止するようなセーフティネット(安全網)を早急に作る必要がある。生活保護や失業保険制度が考えられるが、雇用の場合には、より広い意味でのセーフティネットが考えられる。転職を容易にするための制度を整えることである。
 転職の障害を取り除くことは、失業期間を短縮し、解雇や倒産のコストを小さくするので、セーフティネットの整備といえる。雇用不安解消のために必要な制度としては、雇用維持を促進する制度より転職コスト引き下げのための制度の整備が中心になるべきである。具体的には、職業紹介制度のさらなる充実、能力開発に対する援助の増額、転職による損失が小さい企業年金制度や退職金制度への移行である。
 「新技術を身につけたり、新しい産業に転職したりするのは若年者だけでよいではないか。労働移動は若年労働者の方が容易だから、中高年の雇用を守り続けるべきだ。」という意見もあろう。確かに、人口構成が若くその増加率が高かった時代には、新規産業は新規学卒者を吸収することで十分に成長することができた。長期雇用と新規産業の育成が両立したのである。しかし、中高年の雇用を守ることと衰退産業を保護することは別である。しかも、少子高齢化の時代には、新規学卒者を衰退産業から新規産業に移すだけでは十分でない。
 もっとも、人間の寿命は限られているため、経済環境の変化が生じたとしても高齢者にとって新しい技術を身につけることの収益率は、若い人に比べて低い。年齢が高い人に対して新しい技術を身につけることを奨励してもその効果は小さいかもしれない。
 ではどうするか。市場主義化の拡大とともに、医療、福祉、環境、教育、警察、税務といった公的サービスの重要性は逆に高まる。これらの分野で中高年の採用を増やすような、公的支出のあり方や訓練制度の確立が必要である。長期的に必要性が高い分野における直接雇用や補助金の支出は、労働者にとっても、経済全体からいっても望ましい。
 若い人たちについては、教育訓練投資の収益率が高いため、セーフティネットは訓練助成や奨学金制度を中心にすべきである。中高年の失職によりその子供が十分な教育を受けられないという事態が生じると、格差が世代を通じてますます拡大しかねない。
 それだけでなく、潜在的に優秀な人が経済的理由で十分な教育を受けられないということになれば、日本全体の生産性の低下にもつながる。教育に関する十分な補助金、奨学金制度の拡充が必要である。

情報の選別と分析能力が源

IT革命の負の側面としてデジタル・デバイド(情報化が進む経済格差)が指摘されている。通常、コンピューター利用の巧拙が所得格差を高めることと考えられている。その解消策として、ITの利用能力の開発がよく唱えられる。確かに、ITを使えないと就職さえ困難になってきているのは事実である。しかし、ITの発展で所得格差が拡大している真の理由は、ITの操作能力ではない。
 ITの発展で、記憶能力や情報伝達能力は飛躍的に発展した。一方で、得られた情報の中から本当に必要なものを選び出す能力、それを解析し、判断することは、まだまだ人間の仕事である。このような情報解析、判断能力に大きな供給不足が存在するために、これらの能力をもつかどうかが、所得格差を生んでいる。
 所得格差の拡大を防ぐためには、単なるIT教育ではなく、より高度な情報解析、判断能力を育成するような教育が急務である。
 ところが、IT時代に求められる能力が、今世紀を通じて求められる能力であり続けるかどうかは分からない。技術革新のさらなる進展により、情報解析能力、判断能力をもコンピューターが身につけた場合には、人間に求められる能力は、現在とまた大きく変わることになる。つまり、経済環境の変化は、労働者に求められる能力を激変させていく。
 経済環境の変化の速度が高まった時代でも、われわれはかつてと同じ程度の速さの学習能力に頼って生きていかなくてはならない。そこで、人的資本の蓄積のための教育訓練の重要性が増すとともに、人的資本の陳腐化というリスクをヘッジ(回避)するためのセーフティネットとして、優れた保険システムを構築していくことが課題になる。
 かつては、血縁や地縁がそのようなセーフティネットとしての機能をもっていた。現在でも家庭内において所得の分け方を成果主義的にしている家庭は少ないであろう。日本では企業が保険制度として機能してきた。
 しかし、競争の激化により、企業そのものも保険機能を持つことが困難になってきている。国が保険機能を高めていくか、保険機能をもつ代替的な組織の育成を進めていかないと、競争激化による雇用不安という負の側面が大きくなってしまう。
 どれだけ優れたセーフティネットを構築しても、それを悪用する人たちがある程度出てくることはさけられない。セーフティネットにはそのようなコストが必然的に生じてくることを覚悟する必要がある。
 そのようなコストを負担することを認め合うためには、人間の多様な能力に対する尊敬をお互いにもつことが不可欠であろう。