第13回OFC講演会

演題

「サッチャー改革と小泉改革―小泉首相がサッチャーに学ぶもの―」

開催日時/場所

平成15年10月16日(木)午後6時半~ / 梅田センタービル

講師

(株)日本総合研究所 代表取締役社長 奥山 俊一 氏

奥山 俊一 氏

プロフィール

  • 大阪大学経済学部卒。
  • ㈱住友銀行入行、溜池支店長、内幸町支店長、情報開発部長を経て取締役就任、新橋支店長、ロンドン支店長兼欧州営業部長、常務取締役(欧州駐在)専務取締役、専務取締役兼専務執行役員。㈱三井住友銀行 専務取締役兼専務執行役員を歴任し平成14年に㈱日本総合研究所代表取締役社長就任。
  • 平成15年7月、大阪大学経済学部同窓会長を依嘱さる。

会場風景

  • 会場風景

講演要旨

はじめに
 今日のお話は、私の海外勤務が長かったということで、今の政局だとか状況をなるべくグローバルな視点で捉まえたいと思います。もうひとつは小泉構造改革を考える上でサッチャー改革は、一つの重要な参考になると考えます。サッチャー改革とは何だったのか。選挙に勝てば小泉首相が新たな政権をリードするわけですが、その場合にどういうことが参考になるのか。このあたりについてお話していきたいと思います。

 この10年間あまり、わが国の経済停滞が非常に顕著です。いかに日本の世界におけるポジショニングが悪くなってきたか、指標をみてみましょう。競争力比較をしている調査機関、スイスのIMDが発表している数字ですが、「Japan as No.1」といわれた80年代の後半から1990年まで、国際競争力において日本はトップでした。それからずっとポジションを下げ、2002年には30位です。2003年のIMD調査では、調査報告の形式が多少変り、人口20百万人以上のグループⅠの30カ国の中で「競争力」のトップは米国、そして次にオーストラリア、カナダ、マレーシア、ドイツ、台湾、英国、フランス、スペイン、タイの順番できて11位が日本です。

 歴代の首相そして小泉首相は、いろんな政策を打ってきているのですが、必ずしも徹底した改革路線がとれてないのではないか。その対極でサッチャー政権は、経済社会構造、国民意識にまで迫った徹底的な構造改革をしています。小泉首相は英国で勉強されていたこともあり、英国は非常によくご存知で、当然サッチャー政権を意識していると考えられます。そんな意味からもサッチャー改革とは何だったか見ていくことは何がしかの意味があるかと思います。



●サッチャー改革とその成果
 サッチャーは1979年に初めて政権を握り、1990年に退きます。私は銀行員生活の内、通算約20年弱の間、イギリスに滞在しサッチャー改革を近くでみてまいりました。ほぼ70~80年代の全体を、サッチャー前、それからサッチャーの時代を含めてお話してみたいと思います。

 70年代の英国は、まさに「悩める英国」、「英国病」そのものでした。19世紀末より下降トレンドの中にあり、第2次大戦以降もそれが加速化、「ゆりかごから墓場まで」と社会保障制度は充実しておりましたが、ハイパーインフレーションの中で10数%の物価上昇率、国際競争力は弱体化し、ポンド危機が何度も起こり、86年にはIMFの融資を受けました。労働組合が非常に強く、しょっちゅうストをやっているような状況でした。

 サッチャーが目指したものは「小さな政府」、「市場メカニズムの追求」による構造改革です。いま小泉首相がまさに言っていることです。サッチャーは「国民の意識改革」も目指しました。非常に重要なところだと思います。サッチャーの場合は「自助」。他人に頼らない、国に頼らない、自助の精神というのを大事にしておりまして、そういうことに対する「気概」、「制度」、「価値観」まで変えていこうということでした。雇用、規制、税等のあらゆるコストを下げることによって、国内を活性化し、失業率を低下させていこうという政策をとったわけです。そして結果的に競争力を強くしていくことになりました。なぜこういうことが可能であったかの背景ですが、サッチャーの属人的な資質(戦闘的で「宣教師」的)というものが明らかにあります。ヒース政権のときには、同じような自由主義経済への転換を図りましたが、痛みを恐れ、政策を途中でUターンしてしまった。徹底して改革を進めることができませんでした。サッチャーの第1次内閣では、支持率は第2次大戦以降最低になり、保守党内部にも反対者がたくさん出、一時は英国の経済学者が総勢集まって新聞、書簡で抗議作戦をしました。しかしそのような中でも党首討論等を通じ、あらゆる機会にサッチャーは国民に対して、こうしなければ英国は甦らないのだと、非常に事細かに彼女の信条を説いていったわけです。



 ちょっとここでフォークランド戦争について触れておきたいと思います。と申しますのは、第1次サッチャー政権のとき、彼女は大変厳しい状況に置かれていました。インフレは非常にひどく、それに対して強度の金融引き締め策をとりましたから、失業がどんどん増えて暴動が起こるわけです。もしフォークランド戦争がなければ、少しオーバーかも知れませんが、サッチャーは第1期で終わっていたかもしれません。

 フォークランドは、アルゼンチンのすぐ近くにある小さな島で、1833年英国が領有権をもって支配します。サッチャーの第1次政権最後の1983年、アルゼンチンの大統領、ガルティエリ将軍がフォークランド(アルゼンチンでは「マルビナス」と呼ぶ)はアルゼンチン領だということで、4月の2日に突如、アルゼンチン軍が侵攻します。このときに驚くのは、その同じ日に英国は閣議で機動部隊の派遣を決定しているのです。これは週末のことでしたが、その次の週初には、2隻の空母がもうポーツマスを出ているのです。そして最後は6月14日にポートスタンレーが陥るのですが、この間の英国は戦時体制そのものでした。当初はベルグラーノが沈没したり、5月4日あたりから、エクゾセ・ミサイルの攻撃を受け英国の軍艦が沈みだして非常に苦戦します。軍艦を送り出してからの一ヶ月くらいの間は英国中で、大変議論が沸騰しました。なぜそんなところに兵隊を送るのか、と。そもそも島には羊ばかりで英国人なんてほとんどいないじゃないかという議論があったわけですが、サッチャーのすごいのは、やはり「原則」といいますか、英国人がそこに支配、領有を150年間ずっとしてきたと。それを何の理由もなく他国の軍隊が入ってくるというのはとんでもないということで、テレビなどを通じ、又ありとあらゆる機会に国民を説得して、戦争が始まった時点ではもう完璧に英国はひとつにまとまっていました。これはすごい指導力だなと私は実感いたしました。まさに”iron lady”です。ジョークとして時々取り上げられますが、閣議でいろんなフォークランド戦争についての賛否の議論が当初は出るのですね。そのときサッチャーは閣僚たちに向かって、「この中に男は一人しかいないのか」と言ったというのです。つまり、男は自分だけかと。サッチャーの強い指導力が発揮され、フォークランド戦争に勝てたから、サッチャー政権は続いたといえます。

 第1次サッチャー内閣のとき、緊急課題はインフレ沈静化でした。この問題に集中するため中期財政金融戦略(MTFS)、公的セクターの借入需要(PSBR)抑制等の厳しい金融政策をとりました。失業率はサッチャーが政権をとったときには3.8%でしたが、81年には7.7%になります。支持率は45%から25%まで落ち、いたるところで暴動が起こったわけです。ですから、フォークランド戦争がなければ政権はなかなか維持出来なかっただろうと思います。

 第2次(83年~87年)及び第3次(87年~90年)サッチャー内閣におきましては、主に6つの改革をしております。

(a)税制
 税制改革ですが、サッチャー政権が生まれた1979年、法人税は52%でした。これがサッチャーが退くときには34%に小刻みに下げられております。中小企業向けの軽減税率も78年には42%、サッチャーになってすぐ40%にしました。そして最終的には25%に落としました。段階的にですが、所得税の基本税率も33%から25%に、最高税率は83%から40%に落としました。VATは8%から15%に増やしているわけです。この間、租税の負担率(名目GDP比)はほぼ変わっておりません。35.4%から35.9%。直間比率を、VATを増やすことによって大きく変えたわけです。つまり広く薄く税を課していきました。

(b)労働組合改革
 次に労働組合改革です。80年82年に雇用法、そして84年に労働組合法を作り、ストに制限を加えました。非組合員の拡大を図っていったわけです。ストライキのコストというのは非常に高くて、84年の石炭ストはフォークランド戦争の2倍のコストがかかったと言われています。ポピュラーキャピタリズム(大衆資本主義)と言われますが、労働組合の力が強かった国有企業をどんどん民営化しました。株式を個人に分け与え、持たざる労働者を持てる中産階級にしていきました。公営住宅を住民に払い下げて、民営化株式を個人に放出することによって労組離れを図りました。

(c)国有企業の民営化
 国有企業の民営化についてですが、78年には国有企業のウェイト(GDP比)は7.3%だったのが90年には2.2%。雇用者数も同様に落ちているわけです。主要産業で民営化が進みました。通信関係ではケーブル&ワイヤレス。石油の最大の会社、ブリティッシュ・ベトロリアムや軍需関係ではブリティッシュ・アエロスペースなどが民営化されました。第2次内閣のときにはさらに加速度をつけ、ブリティッシュテレコム通信から、飛行機のブリティッシュ・エアウェイズ、国鉄、ロールス・ロイス、こういう会社がサッチャー政権の間に民営化を進めました。メジャーになってからも民営化路線はどんどん進んでいます。

(d)金融市場改革
 次に国際金融市場の改革についてです。86年には証券市場の改革「ビッグバン」が行われました。サッチャーが彼女の在任期間中ずっと言っていたことは、英国に投資してくれる外国資本が英国人を雇用し、英国の富の創出につながるわけだから、最終オーナーが誰であってもかまわないということです。80年代に日産の英国進出が起こりましたが、これもサッチャーが自ら当時の日産の首脳に掛け合い進出を決めさせたということです。またシティーを活性化させました。いまだに世界の金融市場として優勢を誇っています。

 この他、社会保障制度、地方行財政の改革も行いました。



●小泉構造改革の検証と今後の課題
 さて、小泉構造改革の評価についていえば、現在当社のエコノミスト達が「言論NPO」という組織を通じて議論しているのは、この2年半、方向感は正しいとしても、実績としては結局大したことになっていないと。国民の意識が大きく変わったというとこまではまだいかないのではないかという気がいたします。

 バブル崩壊後の日本経済の歩みですが、経済成長率の推移をみてみますと長期停滞が続いていることがわかります。直近では失業率、デフレ状況も少し改善気味ですが、しかし基本的なトレンドは深刻化しています。株価の動向をみますと、森政権から小泉政権に変わって、ずっと下降しています。対GDP比の財政赤字も悪化の一途です。ユーロの参加条件というのが昔から議論されましたが、ヨーロッパでユーロ圏に入るためには、2つの財政規律を満たさないといけないといわれています。そのひとつがGDP比の財政赤字で、これを3%以内にしないといけない。それが今日本は8%です。もうひとつは、国債や公債の残高がGDPに対して、60%以内でないといけないと言われているのですが、これが今日本では140%にきているわけです。

 小泉政権にはいる前に、少しだけ歴代内閣をみてみましょう。橋本内閣では、6大構造改革を遂げようということだったのですが、消費税を引き上げるなど当時、国民負担を9兆円増やしました。これで一気に景気が落ち、失脚します。小渕内閣の頃は、世界的には全般に景気後退期ですので、経済再生内閣ということで、ありとあらゆる手段を動員しました。98年には24兆、99年には18兆、二度にわたり大規模な経済対策を実施。景気は一時的に回復し、株価も戻してきたわけですが、財政赤字は非常に大きなものでした。その後の森内閣では一年間ということもあって、ほとんど何もやれていないということです。そして小泉政権に移るわけですが、2年半の経済のマクロのパフォーマンスという意味ではまったく誇れるものはありません。ただこの間も外部の環境が非常に悪化していますので、この点も勘案する必要があると思いますし、それから、小泉政権になって、いくつかの路線で評価すべきところが出てきているのも事実です。

 ひとつは、「経済財政諮問会議」を政策決定の場とし、政策決定プロセスを政府主導に変えようとしたことです。それから構造改革のビジョンと方向性を出してきた。また具体的に民営化のプランを出してきたという点も評価できるのではないかと思います。ただ、個別の改革については、切り込み不足で、必ずしも効果が出ているということではないのではないかと、わが社のエコノミストたちは議論しております。こういう点がまさにこれからの課題だということです。なぜ改革がなかなか進まないか。サッチャーの第1期でご説明したように、英国の当時の問題の本質はインフレと競争力の不足だったわけです。それにサッチャーは非常に鋭く切り込んだ。失業率がどんなに増えようとも、サッチャー政権は国民に大衆窮乏化政策をとるのだとオープンに言いながら政治をしてきたわけです。日本の場合、小泉構造改革はいろんなことをやっているわけですが、優先順位が必ずしも明確でありません。いまの日本の問題はデフレの深刻化という部分です。これがスパイラルになりいろんな問題が起こっているのです。もちろんその他、金融機関の不良債権処理等すべきことはありますが、問題の原因にスポットライトを集中的に当てなければ、経済も株も上がらないということです。もうひとつは、政策決定プロセスを変えようといろいろやってきたのですが、政府と自民党のねじれ現象の中での改革というのは、限界があるということです。

 そこで政権運営3年目にして小泉政権の課題を考えてみると、一つはやはりデフレを当面の優先課題にするべきではないかということ。財政運営については、長期的な展望を持ちながらやるべきではないか。法人税率等の税コスト、あるいは規制緩和等の社会的コストを下げながら、競争力を回復する手段をとらなければいけないのではないかとの議論があります。

 そしてまた、今度の選挙のマニフェストでも問題になってくるであろう将来不安について、正面から取組まないと消費も出てきませんし、そもそもその前にどのような国を作るのか、国民にどういう負担を強いながら、どういう国を作っていくのか決める必要があります。社会保障改革、年金改革、いろいろ議論されていますが、たとえば欧州大陸は北欧を中心に高福祉、高負担の体質、いまの英国、米国は低福祉、低負担です。またその中間の中福祉、中負担という選択もあると思いますが、これは最終的には国民にどういう国にしたらいいかを聞かないといけないということだと思います。ですから私は、今度の選挙では、こういうことに焦点をあてて政策議論がされるべきではないかと考えています。

 政策決定プロセスの変革という観点からいいますと、今度の選挙では政権公約(マニフェスト)を選挙前におおやけに集会場で配ってよいと法律で決まりましたので、やっとマニフェストによる選挙が行われることになります。しかしながら、経済財政諮問会議の位置づけが今の中途半端なままですと、なかなか各所管官庁との利害調整が進まないのではないかという問題。それから首相自らがリーダーシップを発揮していろんな政策をしないといけないのではないか。そのためには総理の政策アドバイザー機能を担うところを十分設置していかなければなかなか出来ないのではないかということがあります。



●まとめ 小泉首相がサッチャーに学ぶこと
 とりとめもない話になりましたが、最後にまったくの私見ですが、それではもし今度の選挙で自民党が勝ち、3年目の小泉政権が生まれた場合、これからの小泉政権の中で歴史に学ぶことは何があるのか。

 ひとつに、国家ビジョンと国民意識の改革です。サッチャー元首相は経済改革だとかそういうレベルでなく、国家ビジョン、国民の意識に深く入った改革を断行し、国民をリードしました。フォークランド戦争におけるサッチャー首相の働きは、比類のないリーダーであったといえるでしょう。自国民に対して直接語りかけ、国民を引っ張っていったという意味では、小泉首相は多く学ぶところがあるのではないかと思います。次に経済政策にプライオリティーを置くということ。いろんなことを同時に進行するというのはほとんど不可能に近いわけです。今の日本の直面する問題からいえば、デフレ対策、ならびに民活、民営化。経済の活性化、競争力の強化というのが最も重要なことなのではないかと思います。

 しかしながら、どういうリーダーが出てきましても、それを選ぶのはわれわれ国民なわけです。日本でも緊張感のある2大政党体制が出来つつありますので、われわれはマニフェストをよく読み、議論をし、われわれが望む政府を造っていかなければいけません。そしてまた「官僚主導から政治主導の国家へ」と書いておりますが、地方をみておりますと、非常に開明的な首長さんも出てきています。地域もだんだんと国民のNPOへの参加、そういう機運、情報公開などは進んで来ておりますから、これから日本もどんどん変わってくるという感じを私はもっているわけですが、それを進めるのもわれわれ一人一人の責任だし、そういう中でしか物事は進まないのではないかと思います。
 ちょっと私の話の部分が長くなりましたが、これでとりあえず講演としては終了させていただきたいと思います。

*この講演要旨は、OFC事務局の責任で編集したものです。

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