第6回OFC講演会

演題

「新世紀の日本経済と人的資源」

開催日時/場所

平成13年5月22日(火)午後6時半~ / 梅田センタービル

講師

大阪大学大学院経済学研究科 教授  猪木 武徳 氏

猪木 武徳 氏

プロフィール

  • 京都大学経済学部卒、経済学博士(マサチューセッツ工科大学)。
  • 大阪大学経済学部助教授、教授、経済学部長を経て現職、国際日本文化研究センター教授(併任)。
  • 専門は労働経済学、経済思想、日本経済論。人材の開発・配分、雇用システムに関する研究、功利主義経済思想の研究等。日本経済学会常任理事などを務める。

会場風景

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講演要旨

 本日は、厳しさを増す日本経済が直面している問題を克服するために、中長期的な視点から、今後われわれは何をなすべきかをお話してみたいと思います。

 結局のところ、どれだけ豊かな人材を一国の経済がもっているのかがその国の経済の現在および将来を規定することになります。この人的資源には、2つの特色がみられます。

 その一つは、人的資源は、量的な調整に直接的な費用だけではなく時間がかかるということです。ヒトということで、外国からきてもらうというのもなかなか難しい点があります。足りないからということで供給を急いで増やしたとしても、例えば、10年後にどうか----といった、ラグがある話になります。この意味で、人的資源あるいは人材育成には、どうしても中長期的なシステムの視点が必要になるということです。

 その二は、経済活動にとって最も重要なファクターはヒトであるということです。とりわけ最近の、経済のグローバリゼーションにより、この側面が重要になってきています。これまで日本人は、高度の技術的知識を身につけ、安価で品質のよい製品を世界に供給してきました。熟練が重要であるということことはいうまでもありません。しかし今後は、「言語の能力」も重要になってきました。例えば、契約交渉時、あるいは世界標準を設定するために、自己の立場をいかに説明し正当化するのかといった、言語の戦いに太刀打ちできる人材がますます必要になってくるのではないか、と思います。政治学者の間ではしばしば「ワード・ポリティクス」という用語が使われます。言語の政治、あるいは言語の力ということですね。これはルーティンの仕事ではありません。事態が急速に進展する現在にあって、新しい事態やそこから生み出される摩擦に的確・迅速に対応できる能力を意味し、決してマニュアル化できない性質の力です。

 この点に関して、日本は専門的職業人の育成が世界の国々に比べ遅れているのではないか、従って今後、この遅れを取り戻すための努力が必要である、ということを、以下、3~4の分野に分け、具体的に説明して行きたいと思います。

 一つは、企業内の人材育成です。アメリカ・ドイツと比較した日本企業の特徴として、日本は、意外なことに一番学歴の低い国であること、昇進のスピードが遅いこと(あるいは選別にかなりの時間をかけること)、企業内での経験の幅が広いこと、などがデータから指摘できますが、これらはいずれも日本における専門性の薄さ・低さが現れているものと解釈することができます。経営者と従業員の報酬格差が著しく小さいことも同様です。

 法律職をみても、弁護士・弁理士になるための試験は超難関で、その人口当りの数は、欧米諸国に比べて極めて少数です。法律職の供給が極度に制限されているということは、企業活動がグローバル化し、専門家に判断を仰がなければならない問題がますます増加する中、日本は、このような状況に対応する人的資源をもたないということになり、太刀打ちができないことになります。冷戦の終了後、特許の出願数の増加、さらには外国での出願数の急速な増加という傾向がみられますが、この方面の人的資源が少なすぎ、今の状況が続けば、日本の特許裁判自体が空洞化してしまう危険性すらあるといえます。

 日本における一部の職業人の専門性の低さという問題は、公務員の質と量にも、またジャーナリストやシンクタンクのアナリストについても指摘できると思います。いずれの分野におきましても、日本では、土俵にあがれるかどうかという入職の段階でギュッと絞り込みます。しかし、土俵に上がったとたん、あとは上司の仕事を真似て学べといった程度で、専門的に人材を育てる、という意識が諸外国に比べてやや薄いのかもしれません。

 最後に要約ということで二点を指摘したいと思います。一つは、これまで指摘してきたように、大学院教育による専門性を日本は過去かなり軽視してきたということです。もう一つは、日本は定型的知識を重視しすぎるということです。数学であれ、歴史であれ、教育が定型的知識のチェックに終わってしまう傾向があります。明治の大変革で、西洋のものが入りましたが、当時の西洋のものが入ったのであって、プラトンとかいった古代西洋の古典が入ったわけではありません。またその際、日本の古典・中国の古典、漢籍というのでしょうか、これらを軽視するようになりました。西洋の古典も入れなかったし、東洋の古典も捨ててしまったということも日本は経験したわけです。古典教育を見直すことが、定型的でないものの判断をするのに何か関わっていると感じます。古典とは、語源からいえば、危機に対処できるだけの粘り強い思考力を意味します。このような意味で、古典教育の見直し・再教育が真剣に議論されてもよいと思うのです。

 少し長くなりましたが、以上で私の話を終わります。どうもありがとうございました。

*この講演要旨は、講演者本人が講演の原稿をもとに作成したものです。

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