第55回OFC講演会

演題

文化の下剋上~利休と戦国武将~

開催日時/場所

平成30年2月7日(水)午後6時30分~ /大阪大学中之島センター7階 講義室703

講師

千里金蘭大学 名誉教授・表千家不審菴文庫運営委員 生形 貴重 氏

matumura

プロフィール

    千里金蘭大学名誉教授、放送大学京都学習センター客員教授、不審菴文庫運営委員、表千家同門会大阪支部常任幹事。 1949年、大阪の茶家・生形朝宗庵に生まれる。同志社大学大学院文学研究科国文学専攻(修士課程)修了。1986年、『平家物語』研究で第12回日本古典文学会賞共同受賞。2002年、『利休の逸話と徒然草』の功績で第12回茶道文化学術奨励賞を受賞。 専門は、中世日本文学、茶道文化論。

講義風景

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講演要旨

poster  「下剋上」という言葉は、下の身分のものが上位のものを討ち果たすとった秩序を覆す意味で使われます。15世紀の応仁・文明の乱(1467~1477)以降、日本社会は「戦国時代」に突入します。この時期は、鎌倉・室町時代という武家・公家・社寺という勢力が複雑に存在した日本の中世社会がいったんカオス状態に陥り、新たな秩序・制度の実現に向かって動き出した時代です。特に、16世紀後半に入りますと、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が天下人に躍り出るドラマチックな時代でした。
 この時代を、天下人と出会い、一人の茶人として生きたのが堺出身の千利休でした。茶の湯を通して、戦国・下剋上の時代を生き抜いた武将から慕われた利休の茶の湯は、その後、江戸時代から明治以降の近代社会にわたって、いまだに日本の伝統文化として伝承されています。こうした利休の茶の湯の核心には、下剋上の時代を生き抜いた武将たちの心を、もう一度見直して利休の茶の湯を検討しなければならないでしょう。  今回の講演は、なぜ下剋上の時代を生き抜いた戦国武将に、利休の茶の湯が慕われたのかという事の一端をお話しするものです。
 さて、戦国武将たちは、功利的・実利的なものを求めがちな現代人の心と違って、命を懸けて戦い抜く人生を迫られていましたので、独自の人間観を持っていたように思われ、その心意気を理解しなければ、なかなか当時の人たちの行動の奥にある心を理解できないようです。そこで、講演の最初に、大坂夏の陣で豊臣方として戦死した真田幸村が、彼が戦った伊達政宗の軍との戦の前に、伊達政宗の家臣片倉重長に子供たちを預けた逸話を紹介しました。たとえ敵将であれ、心から信頼できる人物に子供たちを預けて戦死した幸村の心、そして敵将の子供たちを育て上げた片倉重長の心に、戦国武将の心を見る思いがします。
 さて、利休の茶の湯は、織田信長との出会いで武家の儀礼へと展開します。信長政権には官僚組織が未熟で、茶の湯が信長の秩序形成に儀礼として機能しました。信長の茶会は、「戦争→茶会→戦争→茶会」の繰り返しで、天正4年(1576)の安土城着工の頃まで続きます。茶会の場所は、京都の禅宗か日蓮宗の大寺院でした。ここで信長は、戦争前には結束茶会、戦争の後には戦勝茶会を開き、麾下の武将を信長の秩序に組み入れていくのでした。利休を始め、信長を支持し後援した堺の商人たちは、その茶の湯をプロデュースしていったのです。この信長の秩序は厳しく、特に近畿の武将は下剋上で一城の主にのし上がっても、信長の秩序の中ではナンバースリー(与力大名)に位置づけられますので、信長の秩序の中で「下剋上の心」と秩序に組み込まれる閉塞感のせめぎ合いを感じたことでしょう。この抑圧感から解放されるのが、利休の茶の湯でした。室町時代からの秩序をひっくり返して、見立て・掘り出し道具の中に名物以上の価値を発見したのが利休の茶の湯でした。なかでも、茶室は身分差がない時空としましたので、信長の秩序形成の中で閉塞感を味わった近畿の武将たちは、利休の茶の湯(文化の下剋上)に目から鱗体験をし、深い師弟関係を結んでいきました。
 信長の死後、明智光秀と決戦に及んだ秀吉もその一人でしたし、彼にとっては決戦の帰趨を握る近畿の武将たちの心をわしづかみにしていた利休は、山崎合戦以来、側近として政治的にも側にいる人物になったのです。利休と秀吉の関係は、利休の最期まで信頼関係が続いています。しかし、秀吉政権の中で台頭してきた官僚的な武将たち、即ち石田三成たちの官僚派と、信長時代からの家康たちの武将グループの対立のなかで、利休の切腹事件が、東北の伊達政宗問題によって起きたのです。この中でも、秀吉の心を垣間見ると、さまざまな配慮があり、これもまた戦国・下剋上の心のあり方でした。


*この講演要旨は、OFC事務局の責任で編集したものです。

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