困難が多い構造的失業対策
大竹 文雄

日本の終戦直後の失業対策は、公共事業を中心としたものであった。それは基本的には、その後も引き継がれることになり、平成不況における雇用対策も同じ性格をもっていた。一方、構造的な失業対策も地域的には限られていたが古くから行われてきた。炭鉱労働者と駐留米軍からの離職者対策である。炭鉱労働者からの労働移動促進政策は、現在の構造的な失業問題を解決する上で参考になる。とくに、職業訓練と移住対策に重点を置いていた点である。しかし、現代との経済環境の差も大きい。第一に、炭鉱労働者の移動の問題が重要であった時期には、日本の労働者の年齢構成は若かった。若年者の転職は新たな職業のための訓練投資の効率性が高いため、高齢者の転職より容易である。第二に、高度成長の時期にあたり、製造業を中心として、労働需要が逼迫していたことである。たとえば、1959年度において、351名が広域職業紹介で再就職したが、再就職先は、製造業が最も多く、51.2%であった。60年度では、4、808人の再就職者がいたが、再就職先の傾向は同じであった。それでも、廃山した炭鉱住宅を離れず、生活保護に頼って暮らす人も少なくなく、保護基準の問題でトラブルが起きたりしたという。低成長下で高齢化が進んだ上に、技術革新による全産業的な構造変化が生じている現在では、構造変化に対応した雇用対策は、容易ではないことがよく分かる。


(注1)炭鉱離職対策については、神代和欣著、連合総合生活開発研究所編『戦後50年 産業・雇用・労働史』日本労働研究機構、1995年、313〜315頁を参照した。