デフレはどうして悪いのか
−所得分配の不公平が悪影響−
大竹文雄
(毎日新聞東京版 2001年4月1日掲載)
3月16日に政府はデフレを宣言し、3月19日に日銀は物価上昇率がゼロ%以上になるまでゼロ金利を続けることを決めた。しかし、どうしてデフレが悪いことなのかは、一般の人にとって、わかりにくいかもしれない。簡単に言うとデフレの問題点は、住宅ローンの負担を増し、リストラによる失業の可能性を増すことである。それが、不況を深刻にするのである。
デフレとは、「持続的な物価下落」である。物価が下がるのだから人々の暮らしはよくなるのではないか。インフレよりよっぽどいいのではないか。そう考える人も多いだろう。実際、技術革新や安い外国製品の流入、流通業の効率化といった要因で物価が下がっている側面もある。それなら人々の実質的な生活水準は上がっているのだから、デフレは何も悪いことではない。「良い物価下落」という表現もあるくらいである。
しかし、実は物価全体が下落するという現象と一部の物価だけが下落するという現象は、経済には全く異なった影響を与える。全ての物価が比例的に下落する状況の極端なケースは、デノミである。つまり、今までの100円を新たな円で1円と表記するやり方である。この場合は、預金残高も賃金も住宅ローンも全て100分の1の価格になる。したがって、デノミそのものは経済に中立的である。
しかし、実際に生じているデフレの場合には、全ての物価が一律に下がっているのではない。例えば、預金残高、現金、住宅ローンといった金融資産・負債といったものは、デフレであっても名目価値が下がらない。むしろ、デフレでは、こういった資産の価値は実質的に上がっている。そうすると、ローンを抱えた人たちはデフレで損をし、預金を持っている人たちはデフレで得をしていることになる。デフレによる所得移転である。デフレの所得移転は、経済にはマイナスに働く可能性が高い。なぜなら、ローンを持っている人は、貯金している人よりも、もともと消費意欲や投資意欲が高いはずだからである。ローンを抱えている人から金融資産をもっている人に所得を移転すると、ものが売れなくなる。デフレによる所得移転が不況を深刻にしていくのである。
同じことは、賃金にもあてはまる。実は、正社員の賃金はデフレだからといってほとんど下がっていない。そうすると、雇い主からみるとデフレの時には正社員に高めの賃金を支払っていることになる。製品価格に比べて高くなった賃金のもとでは、雇い主はリストラして正社員の数を減らそうとする。一方、パートの賃金は、その時点の経済情勢で決まってくるので、高すぎるということはない。すると、雇用主は、正社員をリストラして、パート社員を採用することになる。正社員の賃金は下がっていないが、パートの賃金はデフレを反映して下がっている。正社員が減る一方で、パートが増え、両者の賃金格差は拡大する。運悪くリストラされた人たちや就職氷河期に就職できなかった人たちは、パートやフリーターとして低賃金の職につくか失業者となる。運良くリストラされなかった人たちも、リストラの恐怖で消費を控えてしまう。
デフレの問題点は、正社員の賃金や住宅ローン残高といった価格が低下しないものが存在し、それが実質的な所得の分配に悪影響を与えることである。所得分配への影響が、経済活動そのものに悪影響をもたらすのである。
日銀がデフレ退治を明確に打ち出したことは、このようなデフレの問題を解決する上で重要である。インフレも所得移転を生じさせ、経済に悪影響を与えやすい。しかし、金融が自由化された現在では、インフレになると金利が上がるのでデフレ時のようなローン負担の不公平の問題は生じない。
デフレの場合には、金利がゼロより下がらないのが問題なのである。なぜゼロより下がらないか。貨幣という金利ゼロの金融商品があるためである。仮にマイナスの金利の金融商品があったとしても、人々は全員貨幣を持つことになり、誰もマイナスの金利の金融商品を買わない。賃金も同じように、インフレ時には上がりやすい。人々は、賃金が少しでも下がると大きなショックを受けるが、上がることについては問題ない。少しのインフレなら賃金は十分に調整できるのである。
インフレ率が高くなりすぎてしまうのも経済にとってマイナスである。明日の価格がいくらになるか分からないような状況が生じると、貨幣は貨幣として機能しなくなってしまう。そのような状況になるのは、放漫財政のケースである。国債を乱発し、日銀がそれを買うと、インフレによって財政収入を得るということになる。
しかし、今必要な政策は放漫財政を可能にするためのインフレ政策ではない。量的緩和によってデフレを克服する目的は、デフレによって失われた価格調整機能をとり戻すことなのである。