所得格差を考える
(『やさしい経済学』「日本経済新聞」2000年2月29日から6回連載)
日本は不平等な社会か(2月29日掲載)
日本はしばしば平等社会だといわれてきた。ところが、最近では平等社会という考え方に対する疑問を呈する人も出てきた。実際、所得格差に対する関心は高まっている。
今回のシリーズでは、@国際的にみて日本は本当に不平等な国なのか A日本が不平等化しているのは本当か B不平等化しているとすればそれはなぜか−−という3点について、統計データをもとに議論していく。
不平等に対する関心の高まりは、格差拡大に対する人々の実感を背景にしていると考えられる。例えば、バブル期にみられた資産格差拡大や金融業を中心とした賃金所得の高まりが、人々に格差拡大を実感させたかもしれない。
また、多くの日本企業で賃金制度を年功的制度から業績主義へ移行する動きがみられる。正社員を少なくして、パートや派遣社員への代替も進んでいる。その両者の賃金格差が格差拡大を実感させているとも考えられる。
いずれにしても多くの人々が、日本が平等な社会から不平等な社会へ変わりつつあると感じているようにみえる。
まず、日本の所得の不平等度が、どのように推移してきたのかを紹介しよう。
グラフでは、総務庁の『家計調査』の五分位階級データから計算した課税前年間世帯所得のジニ係数という不平等度の尺度の推移を示した。ジニ係数は、完全平等のときゼロ、一人が全所得を占めるような不平等のときは1をとる。
大まかにいって、高度成長期に日本の家計所得は平等化が進み、80年代半ばから現在に至るまで不平等化が進んでいる。それでは、日本社会は高度成長によって達成された比較的平等な社会から不平等な社会へ移行しつつあるといえるのだろうか。
本シリーズの結論をあらかじめまとめよう。日本が米国よりも不平等な国になったというのは間違いである。日本の不平等度が、80年代、90年代を通じて高まった要因は、人口の高齢化である。また、高所得男性の妻の有業率が高まり、高所得夫婦の比率が上昇したことも影響を与えている可能性がある。
米国よりも不平等か(3月1日掲載)
橘木俊詔京都大学教授は、「1980年代後半や1990年代前半で見ると、我が国は先進諸国の中でも最高の不平等度である。資本主義国の中で最も貧富の差が大きいイメージでとらえられているアメリカの所得分配不平等度よりも当初所得でみて我が国のジニ係数の方が高いという事実は、にわかに信じがたいほどの不平等度である。」(『日本の経済格差』6頁)と指摘している。
これは確かに衝撃的な指摘である。実際、橘木教授が示している統計では、1989年において課税前所得の日本のジニ係数は0.43であり、米国は0.40である。しかし、この国際比較は正しくない。
少し専門的になるが、橘木教授は、日本のジニ係数を計算する際に厚生省の『所得再分配調査』という統計を用いている。この統計の「当初所得」という概念を「課税前所得」として、米国と比較している。
日本のジニ係数
対象:25-75歳 |
ジニ係数 |
|
所得概念 |
1980年 |
1992年 |
「当初所得」 |
0.3349 |
0.4199 |
修正当初所得 |
0.3217 |
0.3642 |
「再分配所得」 |
0.3151 |
0.3690 |
修正再分配所得 |
0.3023 |
0.3402 |
出所:大竹文雄・斉藤誠(1999)「所得不平等化の背景とその政策的含意」『季刊社会保障研究』
ところが、「当初所得」という所得の概念は、ここで比較されている米国の「課税前所得」とも日本の『家計調査』(総務庁)における「課税前所得」とも大きく異なる。その中でも重要な差異は、「当初所得」は公的年金の受け取りを含まないが、退職金や保険金の受け取りを含むことである。この取り扱いは、不平等度を大きめに表す。
例えば、公的年金だけが所得の源泉であるという高齢者は、「当初所得」では所得がゼロである。これに対し、日本の『家計調査』や米国のCPSという所得調査では、公的年金を所得に含めているので、所得がゼロにはならない。年金受給者が増加すると、このバイアスはより大きくなる。
筆者は同僚の斉藤誠氏と行った研究で、「所得再分配調査」の所得概念を『家計調査』のそれに近づけると、ジニ係数が大きく低下することを確認した。表の「修正当初所得」が、『家計調査』の課税前所得概念に近いものである。1992年において、当初所得ではジニ係数は、0.4を超えているが、修正すると0.36と大幅に低下する。所得概念の正確な国際的統一は困難であるが、最近の経済企画庁の分析によれば、ある程度比較可能な統計のもとでは、日本の不平等度は、先進国の中で中ぐらいであるとされている。
高齢化が不平等化の主因(3月2日掲載)
日本の所得不平等度は、80年代、90年代を通じ、上昇してきている。この不平等度の高まりは何が原因であろうか。個々人についての賃金格差と、世帯全体の所得格差とを区別しながら検討しよう。
不平等の拡大は、バブルのために資産格差が開いたことが原因であろうか。産業間賃金格差が開いたためであろうか。年俸制や業績主義的賃金が導入されたことが理由であろうか。
この中で、資産格差に要因を求めるのは無理がある。バブル崩壊で資産格差は縮小傾向にあるからだ。産業間賃金格差は、バブル時代に金融業の賃金があがったことで格差は拡大したが、最近は金融業の賃金が逆に低がり、格差は縮小している。
年俸制はどうか。個別企業レベルでは、格差拡大につながった例が多いかもしれない。後に検討するように、大卒男性で40歳以上の年齢層に限れば、賃金格差の拡大は見られるが、学歴合計でみれば、年齢内賃金格差は、実に安定しているのである。
グラフでは、男性の年齢内賃金格差の推移を示した。ここで、賃金格差は、上から10%目の人の賃金は、下から10%目の人の賃金の何%高いか、という指標で示されている。
日本の年齢内賃金格差は、年齢層が若いほど小さく、年齢階級が上がるにつれて高くなる。初任給の格差は、あまりないが、年齢を経るに従って、昇進格差、査定による格差、企業規模間格差などが拡大していくのである。この構造は過去20年ほど非常に安定してきた。世帯所得で同様の傾向は観察できる。
このように年齢内所得・賃金格差が年齢とともに大きくなり、その構造が安定的である場合には、人口が高齢化すれば、経済全体の不平等度は上昇していく。人口構成の変化が不平等化の源泉であれば、これは「みせかけの不平等化」といえる。
同僚の斉藤誠氏と筆者は、厚生省の『所得再分配調査』をもとに、1980年代の不平等度の上昇を人口高齢化要因でどの程度説明できるかを分析した。その結果、30%程度は、この要因で説明できることが分かった。だが、賃金格差と異なり、世帯所得では同年齢内の不平等度も上昇している。その原因は何だろうか。
既婚女性の働き方の変化(3月3日掲載)
米国ブルッキングス研究所のバートレス氏は、米国の世帯所得格差の拡大の要因の一つに家族形態の変化があることを明らかにしている。すなわち、@夫婦の間の所得の相関が強まったこと、A単身者が増加したこと、−−という2つの事実で1979年から96年にかけての世帯所得不平等度拡大の4割程度を説明できるという。
かつて高所得の男性の配偶者は、専業主婦か低所得のパートタイム労働者だった。ダグラス=有沢法則として知られる有配偶女性の労働力率に関する経験則は、夫の所得が高いと妻の有業率が低いという内容だった。ところが、米国では、フルタイムで働く有配偶者女性の比率が急上昇し、高学歴・高所得カップルが増加した。
それ以前は、高所得男性の配偶者の所得は低く、低所得男性の配偶者は有業者となり所得を稼いでいたので、世帯間の所得不平等度は、個人レベルでみるよりも平等化されていた。しかし、高所得男性の配偶者も高所得女性となる比率が高まった結果、世帯レベルの所得格差の方が個人間の所得格差より大きくなる傾向が現れ始めた。
日本でも、高学歴女性がフルタイムで高所得を稼ぎながら高学歴男性と結婚する比率が高まっているのならば、同じことがいえるのである。
グラフでは、夫の所得階級別の妻の有業率を示した。1980年代は、低所得男性の配偶者ほど有業率が高いというダグラス・有沢法則が明確に成り立っている。だが、90年代に入るとその関係は弱くなり、97年においては、夫の所得と妻の有業率の間には負の相関関係は観察されなくなっている。
その上、高所得の妻の比率は、高所得男性の方が高く、その相関は近年高まっている。例えば、1997年において、夫の年収が400万円台の妻で500万円以上の年収がある例は約2%に過ぎないが、夫の年収が700万円以上ある妻で500万円以上の年収があるケースは約8%に達する。1987年においては、夫の年収が700万円以上で妻の所得が500万円以上だったカップルの比率は約4%に過ぎなかった。
高所得男性の配偶者は専業主婦になるという世帯形態はかつて、世帯所得の平等化をもたらした。だが、高所得男性と高所得女性の夫婦が増えたことは、世帯レベルでの所得不平等度の上昇に寄与している。
格差拡大を感じる理由(3月6日掲載)
日本の年齢内賃金格差は安定的で、経済全体でみた所得格差・賃金格差の拡大は、人口高齢化とダグラス・有沢法則が絶対でなくなっている(高所得カップルの増加)といった事実で説明できることを示した。
では、なぜ人々の不平等に関する関心が高いのだろうか。経済企画庁が実施した1999年『国民生活選好度調査』では、「所得・収入に関して、その格差が10年前と比べて拡大したと思うか否か」という質問がなされている。ここで、全体では38%の人が格差が拡大したと答えている。一方で「変化していない」「縮小した」という回答も多い。
格差が拡大したという回答が最も多いのは、30歳代と40歳代である。しかも、所得が高い層ほど格差拡大を感じている。
学歴計で年齢内賃金格差を検討したときには、格差拡大は示されなかった。それでは、学歴別にみるとどうであろうか。
グラフでは、大卒男性の年齢内賃金格差(上位10%目と下位10%目の比較)の推移を示した。この格差は、40歳を境に特徴的な動きをみせている。
40歳代では、90年代に入り、年齢内賃金格差が上昇傾向を示している。最近では40歳代以上の年齢内賃金格差の程度は、どの年齢層でも一致してきている。
どうやら大卒男性の40代における格差拡大の動きが、高所得者層や、30歳代、40歳代の格差拡大の認識を強めていることの背景にありそうである。
確かに、大卒グループの中高年齢層では格差が拡大している。しかし、学歴計でみた同一年齢内の格差の動きは、安定している。おそらく40歳代の賃金格差の拡大は、年俸制の導入や業績重視型の賃金の導入といったことを反映しているのだろう。
高学歴化で大学への進学率が高まり、大卒ホワイトカラーの中でも人材のばらつきが大きくなったことが、大卒中高年の賃金格差の拡大をもたらしている、といえそうである。一方、高卒男性の年齢内賃金格差がほとんどの年齢階層で低下しているという事実がある。すなわち、大卒中高年への業績主義的な賃金体系の導入は、人材のばらつきの変化を反映している可能性が高いと考えられるのである。
フルタイムとパート(3月7日掲載)
1980年代から一貫して格差が拡大している労働者グループがある。フルタイム労働者とパートタイムの賃金である。経済企画庁が99年に実施した『国民生活選好度調査』によれば、パート比率が高い30歳代、40歳代の女性には格差拡大を感じている人が多い。
パートタイム労働者をどう定義するかは難しい。ここでは労働省の『賃金センサス』における「1日、あるいは1週間における労働時間が他の一般労働者よりも短い常用労働者」をパート労働者と定めよう。
グラフでは、女性のパートタイム労働者の一般女性労働者に対する賃金率(賞与込み)の推移を示した。1980年以降、一貫して賃金率が低下している。すなわち、フルタイムとパートの賃金格差は、一貫して拡大しているのである。
では、なぜフルタイムとパートタイムの賃金格差は広がり続けているのか。
第一の可能性は、フルタイムとパートタイムの労働者の能力格差の拡大である。しかし、この点はパートの長期勤続化、高学歴化の進展と矛盾する。
第二の可能性は、労働需要側の動きで説明することだ。技術革新の結果、未熟練のパートタイム労働者よりも熟練フルタイム労働者に需要がシフトしたならば、パートの相対賃金は低下する。だが、この場合は、パートのフルタイムに対する相対的な雇用量は低下しているはずだ。グラフが示す女性パート労働者の女性一般労働者に対する雇用者数の比率は上昇傾向で、フルタイム労働者への相対需要の上昇という仮説は否定される。
第三の可能性は、供給側の動きで説明することだ。企業の労働需要には変化がないと仮定し、女性のパートタイム就業に対する供給が増えたとしよう。この場合は、供給の増加でパート労働者の相対賃金が下がり、パートの雇用率も上昇する。つまり、パート需要よりもパート供給の増加が大きいという仮説は事実と整合する。
このような市場メカニズムではなく、単なるパートタイム労働者への差別で賃金格差が存在する可能性もある。だが、その場合はなぜ格差拡大が続くなかでパートの雇用率が高まっているかの説得的説明が必要であろう。
パートの問題を除いて、格差拡大の原因は、高齢化と世帯構造の変化で説明できるのである。