第14回OFC講演会

演題

「地域クラスターの変革と企業経営のあり方」

開催日時/場所

平成16年2月10日(火)午後6時半~ / 梅田センタービル

講師

大阪大学大学院国際公共政策研究科 教授 橋本 介三(よしぞう)氏

橋本 介三氏

プロフィール

  • 同志社大学経済学部卒、経済学修士(大阪大学)岡山大学名誉教授。
  • 岡山大学経済学部助教授、同教授を経て、1994年現職。この間、神戸大学経済経営研究所専門委員、イギリス・リーズ大学客員教授を歴任。
  • 専門領域は産業組織論(オーストリア学派)、地域経済論、地域計画など。
  • 岡山、瀬戸内を中心にした各種の地域計画の立案、調査などに参画。現在は日中経済交流の分析および関西経済圏の活性化、北東アジアの都市間連携、および環境・交通インフラの政策評価の研究に従事。
  • 『日本の産業組織Ⅲ(ビール)』(共著、中央公論社)など著作多数。
  • HP:http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~yoshizo/

会場風景

  • 会場風景

講演要旨

 私は地域産業組織を中心に研究しています。また、今年より大阪府立産業開発研究所の所長として、大阪の中小企業の実態についても実証研究を重ねています。その成果をどのように行政の中に生かしていくか、またこれからの大阪経済あるいは中小企業の再生にはどんな展望があるのかについて、お話したいと思います。

Ⅰ.日本の中小企業政策の大転換
 1999年、中小企業基本法が大きく改正されました(旧法1963年制定)。それまでの中小企業政策は、大企業との格差を是正したり、カルテルや経営の安定を指導したりする弱者保護が主でした。日本の経済政策は、復興期、および高度経済成長期には、大企業を中心に欧米に遅れている部分をいかに合理化するかに主眼。そのために工場に最新の機械を入れたりしたわけです。その一方で、対中小企業政策としては、様々な保護政策を企業組合などを通じて展開しました。しかし大企業で合理化投資を進めただけでは、日本産業の高度化には一定の限界がありました。多くの製品、特に機械関連、電気製品などの分野では、部品の多くを中小企業が作っていましたから、中小企業ぐるみで政策をとらないといけない。そこで高度成長が進むにつれて、中小企業を含めた産業高度化政策、合理化政策を全国一律で展開しました。

 しかし、石油ショックを経て量的拡大の時代が終り、80年代に入って新しい製品やサービス、あるいはマーケットの新規開拓などが要請されました。それぞれ企業の向かう道が違い、最終的に個々の企業がどう革新していくのかが問われてくるようになりました。中小企業政策は今までの企業組合を中心にした集団政策では、意味をなさなくなりました。

 90年代に入りバブルがはじけて、日本経済に大きな構造変化が始まりました。直接投資や国内製造業の空洞化が進み、中小企業は既存分野をこえた開発か、転・廃業かの厳しい選択を迫られた。同時に、社会主義経済圏が崩壊して、情報通信、交通の革命が進み、生産や市場などのグローバル化が進展しました。先進国は、軒並み技術革新競争に巻き込まれ、それにふさわしい産業組織として、産業クラスターが復権。技術革新や雇用の担い手として踊り出ました。わが国は、遅ればせながら、1999年になって中小企業基本法を抜本的に見直すことになりました。生産の社会的な仕組みが世界的に大きく変化しているときでもありました。基本法は経営の安定や合理化を政策目的から外し、主に経営革新、創業の促進、変化への適応の円滑化という三つの点について改正。中小企業政策を全面的に転換させました。中小企業は専門化と集積というコンセプトを抜きに考えられないので、次ぎにこの点を考えてみましょう。



Ⅱ.産業集積と産業組織

 都市には、ヒト・モノ・カネ、知識や技術などいろんな資源が集まっています。それらはさまざまな形で組織化され、何らかのまとまった秩序を持っています。その中心に企業と市場があります。都市は産業革命を経て近代化され、生産の場となりました。産業革命前、都市は消費の場でした。都市の人口を支えていたのは、周辺の生産力、つまり農業生産での余剰です。ところが、産業革命で工業都市が生まれ、工場や職場、所得が地域的に集中して近代都市は発展しました。こんな変革を生み出した産業革命とは一体何だったのでしょう。

 産業革命で資本主義経済が誕生したというのはその通り。これには二つの意味があります。一つは、市場経済が幅広く浸透し、労働という過程も市場で取引されます。つまり経済全体が市場で調整されるまで市場は進化しました。もう一つは技術革新。綿織物機やワットの蒸気機関など新しい機械ができて、工場制生産が成立しました。アダム・スミスは、市場化が進む=分業が進む=生産が発展することだと考えました。

 もしスミスの命題が正しければ、この考え方を企業間にも適用できるのではないか。企業はマネジメントで統括されていても、特定の分野に生産を限定してそれぞれのプロセスを専門化すれば、効率は上がるだろうと。

 生産活動を市場から見れば、専門化・独立した中小企業をオーガナイズしているのが市場。ところが市場を利用するのにもコストがかかる。値段の交渉、仕様の公表、納期のチェックや品質検査、交通・通信費など、手間隙を含めた市場を利用することのコストが取引費用と呼ばれます。この費用の大きさが、企業間の分業の程度を決めます。



Ⅱ-1.工業化と都市化
 産業革命によって、上記のような推論が貫徹しておれば、中小企業は没落しなかったはずです。ところが20世紀に入って、今日に続く近代工業、大規模生産方式がアメリカで誕生しました。それとともに、中小企業が没落し始めました。こんな傾向が前世紀の初めから1970年頃まで、世界的なスケールで生じていました。

 大量生産方式はアメリカ、コネチカットの兵器廠で始まったといわれています。そこでは鉄砲が造られ、南北戦争にも使われました。当時は、熟練工の鉄砲鍛冶がそれを一つ一つ作っていました。戦いの最中に鉄砲が故障すれば、修理する必要があります。そのために鉄砲鍛冶を戦争場に連れていったわけです。ところが修理の合間に敵から攻撃を受けたら困る。だからどうやって早く直すかが重要なポイント。そこで考え出されたのが、複雑なものでも互換性のあるパーツに解体し、それを専用の機械ですばやく生産し、組み立てるという方式。故障すれば部品だけをすばやく取り替えればよい。コネチカットにたくさん集積していた金属加工業者は、いろいろな技術で専用機械を開発して協力。測定の技術も発達しました。

 ところが残念なことに、兵器の発注がないときはせっかく作った専用機械もアイドル化し、コスト的には引き合わなかった。これを解決するため、パーツの組立をスピード・アップし(時間の経済性)、フローラインという生産の組立方式が編み出されました。また、専用機械はさまざまな形のパーツを作るから、それぞれ能力が違います。それらをフル稼動させるには、完成品の生産量が大きくないと具合が悪い。こうして生産は大規模組織化されていきますが、あわせて計数管理のいろんな技法も発展してきました。およそ19世紀末から20世紀の初めの出来事です。

 この方式を機械金属加工の自動車産業に応用して完成させたのが、かの有名なヘンリー・フォードです。こうして機械金属加工分野においても、アメリカ的大量生産方式が確立されたわけです。

 ところが、計数管理をやろうとすると、管理する人間とラインがまた分かれて、アメリカ的大量生産方式の確立と共に、経営学も生誕してきます。計数管理や会計、マーケティングをどうするかという問題が出てきたからです。

 こういう職能が専門的に分化され、トレーニングされ、そこにマネジメントとしてのスキルの体系や階層が独立してきました。その結果、トップマネジメントや会社の幹部、製品開発のスタッフ等は、新しい製品を作るときにはフルに働くが、いったん軌道に乗ってしまえば仕事がなくなります。それを会社がそのまま抱えておくのは非効率。そういう能力がいったん出来上がったら、常に、次のビジネスへ、また次へと活用していかざるをえなくなります。あるいは、ダメな部門をどう整理して統合するかなど、アメリカ的な大量生産方式が確立されると同時に、大規模化や他部門へと乗り出して行かざるをえなくなりました。このようにして大規模生産、多部門ビッグビジネスが隆盛になり、都市化がさらに進展しました。



Ⅱ-2.都市の発展とサービス経済化現象
 新しく大規模な工場が地域的に集中しだすと、さまざまな原料を供給したり、サービスを提供したりする企業が周辺に集まり、あるいはこれまで企業で内製されていた部門がそれぞれ独立しはじめました。こうして補助補完産業が発達し、当該産業をはじめ様々な産業も、そこへ立地したほうが有利という状況が生まれました。こうして都市はますます大規模化しますが、その中心核が決まり、それを中心に都市は発展。その結果、都心部から様々な混雑現象が生じてきました。交通の渋滞、通勤・輸送の障害、あるいは取引費用の増大などがそれ。地価は上がり、中心地をめぐる競争が激しくなるから、本来中心部に位置していた工場や倉庫などは、そこに立地することが相対的に不利な状況に代わりはじめました。その結果、生産機能は都市圏外へと移動し始め、しだいに本社や販売機能だけが都市に残るようになりました。交通・通信の発達はそれを可能にしました。

 交通・通信の革命は、取引費用を節約しようとして発達してきましたが、いくら発達しても、都市規模を究極的に規定している自然や空間には限界があります。自然の制約、キャパシティを破ることができません。工業都市として発展した都市は、いずれ発展すればするほど生産機能の圏外化が生じ、次第にサービス経済を中心にした都市へと産業形態を変えて、成熟します。

 都市の規模拡大を推進した大量生産方式には、もともと大きな弱点がありました。パーツに分けて少数の専用機械で大量に生産したとしても、機械はいずれ必ず故障するから、誰がどのように補修するかという問題が残ります。また,少数の専用機械を誰がどのように生産するのか、という問題も未解決。これは、結局、この発展過程から育ってきた中小企業が担う他はありません。このような大量生産方式の弱点が顕わになったのは、世界の資本主義経済が大揺れに揺れた1970年代のことでした。



Ⅱ-3.比較優位性と地域優位性
 現代、交通や通信が発達して世界中からの競争が活発化。大規模生産の最大の弱点は、商品がくるくる変わるとロットが小さくなり、必ず、過剰投資が生じてくることです。中国は日本に比べて、賃金だけでなく土地代などのインフラの費用が格段に安い。こんな国とはもともと競争にならないのではないか、という議論があります。中国では、鄧小平氏の始めた改革開放政策が90年代に急速に普及し、開放区は、面積、人口においても巨大なマーケットとなってきました。こんなところで造られたものがわっと来ると、これは大変。さらに、1991年のソビエト連邦の崩壊、インターネットや航空サービスなどの交通・通信の発達などが、この傾向に拍車をかけました。

 経済学では、貿易がなぜ起こるのかを「比較優位説」で説明しています。つまり日本は資本豊富国だったら、資本をたくさん使う商品が相対的に安く造られ、中国は労働力が豊富だったら、労働力を多く使う商品が相対的に安く造れる。それらを貿易したら、相互にメリットになるという説です。ところが、これはあくまでも生産要素、つまり資本や人間が国境を越えて動かないということが前提になっています。今や世界ではどんどん開放化、自由化が進んでいます。比較優位なんてないじゃないかと。生産要素の自由移動を前提にすれば、中国で生産した方が安くつくのなら、工場を中国に持っていけということになります。しかし中国に行けば、同じ日本の中小企業も、あるいは中国、台湾や香港、アメリカやヨーロッパの企業もみんな軒並べて生産し、中国国内で激しい競争が生じています。その中でどう優位性を確保するかが、企業にとって存続の鍵となります。だから比較優位性はない、と。関西で生き残れない企業は、中国に行っても存続は難しい。むしろ関西でしか作れないとか、何か地域特有の優位性がないと、地域産業は生き残れない。

 ポーターがダイヤモンドと称して列挙したように,地域優位性を構成するものは無限にありますが、やはり地域の中で競争が一番に重要でないかと思います。これがないと地域優位性もまた消滅してしまう。結局は、競争のプレッシャーの下で危機感が共有され,域内のいろんな要素がすり合わされて、様々な連携がうまれ、価値観も共有できるようになります。また、地域優位性を確保するために、外へ情報が洩れない仕組みも考えなくてはいけません。



Ⅲ.大阪府内の産業集積地と経営革新の事例
 大阪には、たくさんの中小企業が集まっていますが、特に機械金属工業に関連した集積地は、主に、3つあります。大阪東部(東大阪、八尾周辺)、大阪北東部(守口、門真周辺)、それから大阪北部(豊中、淀川周辺)。いずれの地域においても、事業者数は減少しています。従業者数も同じように落ちてきています。これに対応するかのように、最近の5年間に加工の面では、主に単価を切り下げるとか,短納期に対応するとか、品質を高めるとか必死の努力をしています。製造の面では小ロットへの対応、高付加価値製品への対応などの高度化を目指しています。しかし一番苦労しているのは、マーケットが掴めないことです。

 産開研(大阪府立産業開発研究所)は産業集積について注目し,どういうメリットがあるか調査しました。すると、外注・仕入れに便利だとか、受注・販売に便利、操業環境がいい等々の域内分業のメリットをあげる回答が最も多くありました。このような集積地で受発注先の転廃業が起こった場合、中小企業の中の分業体系が崩れてきます。転廃業の影響の有無を調べたところ、外注先が転廃業をしたのは6割くらい、その影響があると答えた企業は約4分の1弱ありました。

 次に、産開研が行った商業集積地の調査の方をご紹介します。アメリカ村、南船場、堀江、新町などのように、最近、新しい形の商業地ができてきています。こういうところと旧の商店街との間に、商業者の行動にどんな違いが出てきているかを調べました(平成14年10月)。業種でいうと、新しい街は飲食店が一番数多く、日用雑貨とか家具、衣服・買い回り品も多い。従業員数は、新しい街は5~9人という規模が主で、古い商店街は2~4人。従業員規模では新しい街のほうがやや規模が大きい。最近3年間の年商の推移では、新しい街はだいたい3割くらいが増加傾向。これに対して古い街の8割弱くらいは、年商が悪化。採算性についても、黒字基調が続いているのは、新しい街では約3割、古い商店街では約12%しかありません。

 この違いはどこからくるのでしょうか。新しい街は、古い商店街に比べて新しいサービス、新しい商品を提供するといった革新性、将来性を重視しています。「この地域でないと」という地元性もわずかに優位。また、専門性、成長性なども重視しています。

 店舗運営のやり方も、古い商店街は価格競争を重視していますが、新しい街は顧客管理だったり、利益管理を徹底したりしています。配送サービスの充実、ディスプレイ方法の工夫、各種媒体による情報発信、オリジナル・ブランドの販売も心がけています。店舗の改装・改築にも非常に積極的だという差が出ました。

 また、大阪府下における経営革新の現状についても調査しました。(詳しくは『大阪経済・労働白書(平成15年度版):経営革新により飛躍を図る大阪産業』をご覧下さい。)得られた結果はこうです。
 1.経営革新への認識は高く、これに取り組む企業の割合は55%。
 2.経営革新に取り組む企業は業績もよく、雇用創出にも効果。
 3.保有する技術の高度化や市場の確保が契機。既存事業を起点にし、第二創業に取り組む企業も少なくない。
   製品・サービス開発が中心。顧客への迅速な対応力で強み、市場形成や人的資源で弱み。
 4.外部資源の活用がポイントになるが、資金のみならず、技術・ノウハウの流出などのマネジメントが課題。
 5.戦略面では、柔軟さの中にも一貫性、長期的視点が必要。
   実力主義や専門的な人材育成など、組織における人材活用が鍵に。
 6.経営革新に特に必要な職種は、営業・販売、企画・開発要員。



Ⅳ.地域優位性の確立に向けて
 これまでの議論や事例を踏まえ、地域クラスターを変革し、地域の革新能力をいかに確立するかについて、簡単に要約しましょう。

 地域優位性を形成するには、非常に重要なオプションとして産業クラスターがあります。ただし、産業が集積しておればクラスターというわけにはいきません。変革が必要です。活力のある産業クラスターを形作る要因は、無数にあります。行政もいろいろ試みていますが、決め手がなく、なかなか難しい。行政はどちらかというとクラスターを主導するというよりも、育てる環境を作り、涵養していくことが中心。しかし環境整備だけでは不十分で、地域の中で多数の活動の中から、これはいけそうだ、これはだめだというふうに互いに発見し、創造し、学習していくことが重要。確かに、起業家精神やチャレンジ精神が核になりますが、同時にこれらを自由に発揮できるようなオープンな雰囲気、そういう社会環境をどう作っていくのか。そういう環境の中で自発的な学習をどう進めていくのか。創造された知識を地域でどのように守っていくのか。こんな試行錯誤を競い合う地域文化や風土が大切。かつて、大阪にはそういうものが確かにありましたが、最近、だいぶ風化してきているのではないかと危惧しています。

 「こだわりの経営」が地域革新、経営革新の推進力だとよく言われます。ただし、経営者の押し付けに終われば無意味。要は、消費者・ユーザーとの関わり合いを強く意識し、消費者・ユーザーの利益を具体的に現していくことが、ポイント。これは経営の進むべき道にとって、ごく当たり前。これをもう一度取り戻すことが大事。

 最後にもう一つ。大阪の産業集積地で一番困っているのは、マーケットとのリンク。とりわけ、中国のマーケットや社会とのリンクが、うまくいっていないのが気がかり。近々、中国のマーケットは日本にとって最大の取引先になります。というのに、両国のトップ同士が相互に交流できないのは非常に残念。本当に日本の再生戦略を考えるなら、その辺のことを早く考え直していただきたい。しかし、それを待っていたのでは間に合わないし、待たなくてもよい。中国にこういう警句があります。「上に政策があれば下に対策あり」。上がやらなくても地方はやるよ、と!だから関西も上からの地方分権化を待たずに、独自に、東アジアとの地域間交流のイニシャティブを取っていくこと。そういう方向を目指して行動を起こすことが、とりわけ、重要と思う。

*この講演要旨は、OFC事務局の責任で編集したものです。

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