第7回OFC講演会
★大阪企業家ミュージアムの見学会もあわせて行われました。

演題

「企業家精神のまち・大阪」

開催日時/場所

平成14年5月22日(水)午後7時~ / 大阪産業創造館

講師

大阪大学大学院経済学研究科 教授 宮本 又郎 氏

宮本 又郎 氏

プロフィール

  • 神戸大学経済学部卒、経済学博士(大阪大学)。
  • 神戸大学経済学部助手、大阪大学経済学部助手、講師、助教授を経て、現職。
  • 専門分野は近世および近代日本経済史、日本経営史、特に、日本における市場経済の形成、商業史、商家経営史、会社制度成立史など。
  • 日経経済図書文化賞、東畑記念賞受賞。経営史学会会長、社会経済史学会理事、日本経営史研究所理事などを務める。
  • 主要図書は、『近世日本の市場経済』(有斐閣)、『企業家たちの挑戦』(中央公論新社)、『日本商業史』(有斐閣)、『日本経済史1-経済社会の成立』(岩波書店)、『江戸期商人の革新的行動』(有斐閣)、Trade Associations in Business History (U.Tokyo Press)、など多数。

会場風景

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講演要旨

 演題として、「企業家精神のまち・大阪」と掲げましたが、今日は難しい話ではなく昔の大阪の話をしてみたいと思っております。

 学術的には、「企業家」はフランス語のアントルプルヌール(Entrepreneur)という言葉に由来していますが、ご承知のように企業家に大きな関心を示したのはシュンペーターという学者であります。シュンペーターの『経済発展の理論』という本では、企業家を「新結合の遂行を自らの職能とし、その遂行に当たって能動的な要素となる経済的主体」と定義しています。ここで、新結合とは経済資源をどのように結合するか、その結合の仕方によって新しい物が出来たり、新しい技術開発が行われたりすることをいうのですが、新結合、すなわち革新(innovation)の種類をシュンペーターは ①新しい商品を作ること ②生産方法が新しいこと ③新しい市場を開拓すること ④新投入、即ち新しい原料 ⑤新しい会社組織や経済組織、の5つに分類しています。これらのうち、少なくとも一つを実践することが新結合の意味であり、これがおこれば資本主義が永続的に続いていく、というのがシュンペーターの主張でした。それに対立する考え方はマルクスの利潤率の低下です。マルクスの考えは、新しい商品や新しい生産方法が開発され、何らかの創業者利潤が得られたとしても、他の人が参入してくると利潤率は低下し、最終的に利潤率がゼロになってしまう、そうなると資本主義は死んでしまうというものでした。シュンペーターは、そう考えずに、革新がある限り利潤が生まれてくるし、利潤が続く限り資本主義も続くと考えたわけです。このようなシュンペーターの指摘にもかからず、その後の経済学の歴史の中では企業家への関心は薄まったというか、あまり取り上げられずに等閑視されて来ました。

 ところが、アメリカで1948年にハーバード大学に企業者史研究センターという研究センターが設けられました。当時アメリカでは途上国にお金とモノをつぎ込んでいたわけですが、期待に反して経済発展がおこらず、「どうもこれだけでは駄目だ、人的資源を育成しなければいけない」ということから、この研究センターが設立されたわけです。この研究センターをリードしたのがA.H.コールという学者でした。彼は、企業家というものはシュンペーター流の革新者だけではなく、事業を創造する者、それを拡大し維持する経営者も入れるべきだと主張しました。従って企業者史研究センターではシュンペーター流の革新者だけでなく経営者も管理者も研究されることになりました。シュンペーターの場合はある種の均衡状態から革新によって不均衡が生まれることを重視したのですが、コールはむしろ不均衡から均衡にいたるプロセス、これを競争と考えたわけですが、こちらの方も経済発展にとって重要と考えました。その後A.D.チャンドラーという学者は、今日の大企業では個人企業家よりもむしろ社長、専務、常務といった経営者組織の果たす役割の方が重要であると考え、企業家という場合、経営者組織までもこれに含めて考察すべきだと主張しました。以上が学問的な意味での企業者論の概観です。


 さて、近年、日本は元気がなくなったといわれていますが、1960年代から90年代までの開業率と廃業率をみてみますと開業率が低くなってきているのに対し、廃業率が高くなっています。問題は廃業率の方が高くなっているということです。他方アメリカでは今でも旺盛に新しい企業が設立されており、こういう点をみても日本経済の不振があらわれています。

 また100社ランキングという統計があります。明治29年から昭和57年まで約10年おきに製造業について総資産の大きい会社をリスト・アップしたものです。戦前には繊維が多く、戦後は鉄鋼や輸送機械、電機、一般機械それから土木建築といったものが重要産業となって来ており、産業構造が著しく転換していることがわかります。それに同じ会社がこの100社ランキングにとどまり続けることは大変稀でした。大企業でもせいぜい20~30年しか100社ランキングにとどまっていません。企業社会というものは栄枯浮沈が激しかったことがお分かりになるでしょう。

 次に大阪についての話をしたいと思います。大阪は経済都市だと云われますが、実は大阪は昔から何度も性格を変えてきた都市です。大阪は奈良や京都などよりずっと古くから開かれてきたまちです。古代においては仁徳天皇の高津宮、孝徳天皇の長柄豊崎宮、聖武天皇の難波宮、などの王都がおかれました。これらを含めて4世紀から7世紀の間のうち、大阪が首都、もしくは陪都の時代が約200年もあったのです。大阪は日本第一の政治都市、国際都市であったのです。

 中世になると大阪は歴史の中で影をひそめてしまいます。わずかに熊野詣の通過点となっただけでさびれてしまい、再び大阪が歴史の前面に出てくるのは1496年に大阪本願寺が建てられてからです。本願寺は1580年に大阪を退去しそのあとに秀吉が1583年に大阪城を築きました。秀吉が来てから大阪は天下の台所となるのですが、その当時堀川を開削したことが重要です。大阪の地形は低地が多く、雨が多いと水が溢れて沼地となり、とても人が住める土地ではありませんでした。そこに東横堀川を南に引き、西横堀川、道頓堀川、長堀川、京町堀川等々の運河を掘っていきました。堀川には①水を流して水路とすること ②掘った土を干拓に使って人の住む土地を作ること の二つの意味があります。加えて、堀川の開削は大阪商人自らの民活によって行われたという点は、特筆されるべきです。1630年代までにこれらの堀川が完成し、市中に水運が整備される、即ち、現在でいう高速道路が張り巡らされた訳です。そして、船場、島ノ内が出来、各地から商人が大阪に呼ばれてやってきました。これで大阪は商業都市として成立したわけです。

 このようにして大阪は天下の台所になるのですが、もう一つ大阪繁栄の大きな要因があります。これは大阪が瀬戸内海に面していることです。瀬戸内と下関、さらには日本海側とを結ぶ海運を開くことが出来、江戸時代を通じて大阪の市場圏は西廻り海運で秋田、山形まで直結することになりました。加えて大和川が西流されて、木綿が作られる新田が河内に開かれたことも一つの要因です。

 大阪は、商業都市といわれていますが、江戸初期は工業都市でした。木綿生産、菜種油、銅精錬が行われ、さらに酒も大阪でつくられていました。そういう意味で江戸初期、大阪は工業都市であり、江戸時代の後半に流通や金融が発達してくるのです。この点については各藩が大阪へ米を送って、大阪で売ったということが大きく影響しています。米を売った大名の販売機関が蔵屋敷、米の相場を立てたのが堂島で、前者は物流機構であり、後者は価格形成機構ということになります。

 もう一つ、大阪は国内市場の中心であったばかりでなく、貿易品流通の中心地でもありました。例えば道修町の薬種問屋、伏見町の唐物問屋など長崎からの輸入品を扱う問屋が存在する一方、長崎からの輸出品の集荷機関である銅座や俵物会所(干しアワビなどの海産物を扱う)が北浜に存在していました。

 このようにして大阪は繁栄しますが、江戸後期になると地位が低下してまいります。それは今日流にいうと産業の空洞化であり、第一は木綿とか酒・油等の生産地が東や西へいってしまったこと、第二は下関や名古屋などの地方市場が成長してきたこと、第三は大商家が没落してきたことが原因となっています。そして明治に入ると更に大阪は混乱し、衰退していきます。これは米市場が廃止されたことが一番大きな理由ですが、御用金が多くとられたこと、大阪で使っていた銀貨が廃止されたことのほか、大名貸しが回収不能となったことがあります。

 もう一つ、外国貿易がうまくいかなかったことがあります。幕末に諸外国、特に英米は大阪と江戸を開港せよと強く迫っており、幕府もしぶしぶ了解したのですが、大阪は淀川の河口が土砂で埋まってしまっており、大きな船が接岸できなかったこと、それでも大阪商人は堀削工事をしようとしたのですが、大名貸しが返って来ず、築港工事をやめざるを得なくなってしまったわけです。

 このようにして大阪は衰退していたのですが、それを救ってくれたのが紡績業の成功です。明治15年に澁沢栄一が松本重太郎と藤田伝三郎と組んで作った大阪紡績が大きく成功し、高配当するということになったので、次々と紡績業がおこり、近代紡績業を軸として大阪は工業化路線に入ることになります。これがグレーター大阪の時代へとつながっていくわけです。大大阪という言葉があるように、第一次大戦後の時代に大阪の市域が拡大され、それにつれて従来の繊維工業、雑貨工業中心から化学、機械、金属等も発展してくると共に、金融面でも国債売買高の93%、株式売買高36%を大阪で取り扱うようになり、貿易面でも対中貿易の50%を扱うなど対アジア貿易の中心となりました。明治維新以降に、旧来の商人層に代わって、五代友厚をはじめ大阪の経済界を発展させた企業家が多く輩出されたことは、先程この会場の地下にある大阪企業家ミュージアムでご覧になった通りであります。


 大阪の企業家精神についてまとめてみましょう。まず、大阪は絶えず変化を求めてきた町であってずっと同じ町ではなかったということです。先ほども云いましたように古代は政治の都市であり、大阪本願寺の時代は宗教都市であり、江戸時代は水の都(商業都市)と云われましたが、明治には煙の都(工業都市)と云われるようになりました。江戸時代は河内木綿でしたが、明治以降は紡績の町になりました。このように大阪は古いものを新しいものに作り直すという、「接ぎ木の思想」を持つ面白い町で、伝統を守るために革新を続けてきた町であるのです。二番目には開放性と同化力ということがあげられます。各時代各時代において、大阪に変革をもたらしたのは、必ずしも土着の人ではありませんでした。鴻池、住友、五代、小林一三、松下幸之助といった人々も大阪の外の地方から来た人々です。しかし、大阪で成功すれば、これらの人たちはすべて「大阪商人」と呼ばれることになります。つまり大阪には開放性と同化力があるということになります。この点、江戸とは大いに違うところです。


 最後に一つとんでもないことをお話して終わりたいと思います。実は最近私は、『東西400年交替仮説』をとなえています。日本の人口の長期的な趨勢を紀元前4,000年以降でみますと、日本には4回ほどの人口増加の波がありました。縄文期と、稲作が入ってきた弥生時代、江戸時代の前期、それに工業化が始まった明治以降です。今、この第四の波が終わりつつあり、工業文明が終わろうとしている、これから人口は停滞期に入ります。人口学者の指摘によれば、実は日本では人口が成長している時は都市に人口が集中し、人口停滞期には地方へ拡散する傾向にあったということです。明治以降、人口増加期には人口の都市集中が続いてきましたが、今後の停滞期には人口の地方拡散が生じる可能性があることになります。また、もう一つ。日本の人口を地方別、即ち近畿地方と関東地方に分けてみますと、縄文時代は圧倒的に東が多い。次の稲作文明時代、これは奈良時代なのですが西が多い。そして鎌倉時代、この時代には政権と共に経済も東に移り、人口も東に移って行った。そして関ヶ原の時代になりますと、また西が多くなり、近畿地方への人口集中は著しくなった。ところがそれを頂点として、今度は日本の人口重心は東へ東へと動き、明治以降とくに関東への集中は激しくなった。このように日本では大体400年おきに人口の重心は東西にゆれてきました。言い換えれば日本は国土を非常にうまく使い分けてきたといえます。現在1600年から2000年までの間、東に人口の重心が動き続けて、400年が経過しました。ですから、今年位からそろそろ東→西への転換が起こってもおかしくないのではないかと、思っています。永らく関西の地盤沈下が云われてきましたが、それはそう永くは続かないのです。21世紀は逆転の始まりの時代です。
 ここら辺で話を終わらせて頂きます。どうもありがとうございました。

*この講演要旨は、OFC事務局の責任で編集したものです。

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