第24回OFC講演会

演題

「日本の文化力について」

開催日時/場所

平成18年10月20日(金)午後6時半~ / 梅田センタービル

講師

(独)日本芸術文化振興会 理事長 津田 和明 氏

津田 和明 氏

プロフィール

  • 1957年3月大阪大学法学部卒。
  • 同年4月 (株)寿屋(現サントリー(株))入社。ロンドン支店支店長などを経て、1995年取締役、常務取締役、副社長などを歴任。現在は同社顧問。
  • 財界活動では現在、大阪阪商工会議所議員、関西経済連合会常任理事・会計監事を務める。2001年~2005年には文化庁文化審議会委員。2004年5月から日本芸術文化振興会理事長。また、同年4月から大阪大学経営協議会学外委員。

会場風景

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講演要旨

 大学の食堂に貼ってあった求人票の中から、仲間に推薦されて寿屋(現サントリー)に就職し、それから47年間も在籍しました。その間、人事、営業、国際といろいろ経験しましたが、文化活動にも触れることができました。その関係で文部科学省の文化審議会委員に入りました。

 日本芸術文化振興会は文部科学省の外郭団体として設立された特殊法人でした。文科省と一体の仕事をした結果の赤字は全部税金で埋めるという仕組みでした。小泉前首相の行政改革は、官から民へという方針が根本にあり、特殊法人は否定して独立行政法人という民間の経営感覚を盛り込むことになりました。私がこの会の理事長に就任したのはサントリーでの文化活動と文化審議会の実績を買われたのでしょう。

 自分では文化人というより経済人のつもりでしたが、理事長として三年経ちますと文化の重要性がひしひしと身に迫ります。実際のところ日本の文化力とはどの程度の評価を受けているのか、私の感想を率直に申し上げてみたいと思います。



 文化力というのは単純に数字で表せません。軍事力なら軍艦や戦闘機、核爆弾をいくつ持っているかなど数字で表せる。経済力は国民所得、GDPなどで表すことができます。

 本来、文化力というのは上下、大小がないと言われます。例えばアフリカなどで自給自足の生活と、アメリカのようにエネルギー使い放題の生活と比べます。科学文明はアメリカのほうが明らかに上だが、文化としてどちらが上かと尋ねられるとすぐに答えられません。例えば地球を一切汚染しないというのを文化の基準と定義してしまうと、一切のエネルギーを使わずに原始的な生活をしているほうが優っているともいえます。このように考えると国の力を文化力で測ることは、本来できないことなのです。

 ところが、文化力というのが、力めいたものを持っているという意見が出始めました。1990年にハーバード大学のジョセフ・ナイ教授が21世紀はソフトパワー、要するに文化力の時代だと発表しました。動物の世界では弱肉強食が生きるルールでした。国と国の間も軍事力が生き残る基本だった。その歴史は非常に長い。ところが各種の発明や研究の成果で軍事力も複雑になってくる。国民所得の増加や科学の進歩など国としての力が充実しないと軍事力は進歩しない。それで問題になってきたのは経済力です。軍事力の充実は経済力で裏打ちしないと出来ない。経済制裁や経済封鎖も背景に軍事力がないと出来ない。豊臣秀吉は兵糧攻めが得意であったが背景には圧倒的な軍事力があった。軍事力があれば経済制裁だけで相手を倒すことができるようになった。日本を取り巻くABCDE包囲網が日本に石油を一切入れないようにした結果、日本は真珠湾を攻撃せざるを得なくなった。勝算もないのに戦争を始めるという暴挙をせざるを得なかった。だから20世紀までは軍事力、そして経済力が国力のバロメーターであったと言えます。

 ところが、科学が進歩してくると、軍事力も向上して核爆弾に代表されるように、相手の兵力だけでなしに一般の市民まで殺傷してしまうようになった。同じように経済制裁や経済封鎖をしても一番苦しむのは一般市民である。現実に北朝鮮に対して経済封鎖をしても、将軍様は絶対に飢えない。塗炭の苦しみを舐めるのは人民なのです。このように国力の対決に軍事力、経済力は人道上の配慮をすれば使えなくなっているのが現状です。

 ジョセフ・ナイ教授が文化力を取り上げた背景には軍事力や経済力に頼れない現状があります。文化力とは意味曖昧な言葉です。力というのは、最近、新聞などで「就職力」や「就活力」というふうに使われているが、その場合、力は能力を表していると考えてよいでしょう。本来、文化に「力」という字がなじまないのは確かです。昔から「色男、金と力は無かりけり」と言います。この場合の色男とは文化でしょう。

 ところが、「文化力」に戦争抑止力があったように見えることがあります。戦後すぐに流行った映画で『パリは燃えているか』がありました。確かパリ占領軍ドイツ司令官がヒットラー総統からパリを徹底的に破壊して撤退するよう命ぜられます。当時のドイツ軍にとってヒットラーの命令は絶対的な権威があり拒否することは死と同じであった。当然ナチス親衛隊の幹部は命令を実施することを要求するのだが、司令官は「パリという世界の都、文化の都パリ、素晴らしいその建築物、風景、そこに住んでいる人すべてを含めて、パリの街を潰すには忍びない」と、命令を拒否してパリを破壊しなかった。何百万人というユダヤ人を殺したナチスが、パリの文化力を破壊できなかった。日本でも同様に京都や奈良は爆撃されなかった。これはやはり、京都、奈良の街が、アメリカ人からみても歴史の集積であり、人類の遺産である。このような文化は破壊してはならないと自制したのでしょう。文化力はまったく無力のように見えるのだが、時には相手の暴力を防ぐことができる。相手がその文化力価値を認めないと出てこない力なのです。軍事力や経済力は、相手が認めようが認めまいが、強制的に強いることができる。しかし、文化力は相互が認識しあってはじめて力が出る。まさに21世紀、対話の時代にふさわしいものだと思うのです。

 これは「文化力」の弱みでもあります。例のタリバンがバーミヤンの遺跡、仏像を破壊しました。あの遺跡の価値は、世界遺産の中でも極めて上位にくるほどの遺産である。ところが、タリバンは何の前触れもなく爆薬をしかけて潰してしまった。また、中国各地にあった孔子廟は中国の伝統と歴史の文化の華です。それを文化大革命で、紅衛兵たちが、面白半分に半分以上潰してしまった。これは中国にとっては大変な文化的な損失です。だから文化力は相手からの評価を得て力になる。このように考えると、日本の文化力は諸外国からどの程度の評価になっているのかを考えなければならないと思います。



 日本は四季の明確な美しい自然に恵まれた国です。自然の中で営む人間の行い自身がすべて文化につながる。そう考えると、絵画、お華、お茶、宗教などすべてが文化です。しかし文化をあまり包括的、抽象的に考えると、文化振興とはいったい何だということになってくる。文化庁の文化振興とはどういうことか、文化をある程度定義しておかないと意味がなくなってきます。宗教や哲学、学問、美術や演劇、工芸品、また遺跡、神社仏閣なども文化に入れていい。そういった文化をわれわれは振興しよう、日本の文化力をあげようとしているのです。日本の美しい自然。神社仏閣、木造でありながら千年以上残してきたこの美しい人工物に対して、その価値を損じることなく子々孫々まで引き継がれていかなければならない。これが文化の維持、振興になる。

 もう一つは、人間の生活やライフ・スタイルが文化力の表現力になる。幕末と明治の初めに、欧米人の軍人や外交官、それからお雇い外国人、知識人らがどんどん日本へやってきました。その人たちの日記や手紙を見ると、その8割が日本人は素晴らしいと驚嘆をもって書いています。日本は欧米と宗教やライフスタイルが全く違う。しかし非常に礼儀正しい、お客様に対する応対が優しく礼儀正しいと思わせている。恐らく儒教や武士道を基本にした日本人の応対が、言葉も何も判らない彼らを非常に感嘆させている。武士階級だけでなく、自分たちの使用人の礼儀正しさにも感心している。その頃の日本人の識字率は世界でも一番だといわれています。西欧の生活スタイルからみると、明治の初め、江戸末期の日本人の生活の清潔さは、おそらく欧米人をはるかに上回っていた。このような驚嘆が日本を植民地になる事から救った。あれだけ圧倒的な軍事力をもってアメリカ、イギリス、フランス、ロシアが日本へやってきて植民地化することを諦めたのは、当時の日本人の文化力の貢献度が高いと思われます。産業革命にも遅れ、工業、生産業では後進国だった日本が文化力ではかなり評価されたのでしょう。

 当時の日本と比較すると現在の日本は軍事力や経済力では世界でもトップクラスでしょうが文化力では低下しているのではないでしょうか。猛反省しなければなりません。長幼の序とか、他人を思いやる心、惻隠の情、含羞、親に対する尊敬、先生に対する尊敬といったものが、戦後60年の間に急速に崩壊したと思います。封建的だとか、旧弊だと言って切り捨てたものが多すぎると思っています。

 日本の文化力を強化するには集団として生活する社会に共通なルールが必要です。

 私は個々の権利を尊重する武士道精神が好きですが、大小の刀を腰に差した武士のイメージが強くて国民すべての賛成を得るのは難しいでしょう。しかし宗教が定着していない我が国では道徳などの社会規範や自己の確立と集団の利益を両立させる精神教育は絶対必要だろうと思います。

 幸い、日本固有の演劇、芸能、美術、工芸等などには当時の精神が底流として残っています。日本人自身がその価値を知り、社会生活に必要であることを理解して、維持振興しなければなりません。これも日本芸術振興会の重要な責務です。

 小泉前首相はビジットジャパンといって2010年には1,000万人の外国人を日本に呼ぶことを提案されました。着々と進行中で達成は出来るでしょう。

 せっかく日本に来ていただいた外国人に今後も日本ファンになって貰うためには何をすべきかが大きな課題です。神社、仏閣、歴史遺産だけでなしに、日本の伝統芸能もぜひ見せたいと思います。最近行われた歌舞伎や文楽の海外公演は大盛況です。字幕やイヤホーンガイドを整備すれば外国人にも喜ばれると信じています。

 正月公演で小泉さんが来られた時に、日本の伝統芸能に国費で字幕を作ることを訴えてみたのですが失敗しました。大変な経費を要する事なので簡単には出来ないでしょうが、自己資金で国立能楽堂に日本語と英語の字幕を入れてみたのですが大好評です。

 安倍首相が重要政策として教育基本法の改正に取り組んでおられます。目標とした結果が出るまで頑張ってもらいたい。日本人らしさというのか、日本人の持っている美徳を育てる必要があると思います。日本の伝統芸能には現代でも大切にしたい道徳がたくさん含まれています。この道徳を太い根っこにして、海外に枝や葉っぱを茂らせていくようにしたいと思っています。日本の伝統芸能の代表的なものは能楽、文楽、歌舞伎だと思います。幸い、平成13年に能楽はユネスコの世界無形文化遺産に指定されました。百何カ国の委員が投票で決めるのですが、基準の第1条件は類稀な価値を有すること。二つ目がその民族固有のものであること。三つ目、援助の手を差し伸べなければ消滅するもの。

 能楽に続いて、平成15年に文楽、平成17年が歌舞伎と、相次いで登録されたことは誇るべきだと思っています。最近では観客数も増えているので先ほどの第三の条件、消滅する恐れには該当しないように言われるのですが、実は後継者の育成が深刻な課題になっています。



 私が今の仕事に就いたとき、謙遜の意も含めて「お役所の世界を知らないので心配だ」と言ったら、「いや心配要りません、我々がみんなやりますから」とほかの幹部に言われた。本音でしょうが、それでは民間から来た意味がない。着任早々に、全部署全員400 人ほどと対話をしました。対話をしただけでも評判は良くなりました。此処の職員の意識で1番の問題点は、文部科学省にどのように評価されているか。2番目に関心は出演者への気遣いです。歌舞伎も能も文楽も人間国宝クラスです。2番目がお客さんです。その順番を思い切って変えてみた。我々接客業にとってお客さんは神様です。とにかくお客様に来ていただく事からすべてが始まる。昭和41年にできた千代田区隼町の国立劇場は、棟の長さだけで百メートルある長大な建物です。地下鉄から歩いて近づいただけでもドキドキ、わくわくするイメージがほしい。その点ではまだまだ改善しなければなりません。

 国立劇場の右隣が最高裁判所、左隣が警視総監の官舎です。その後ろが警察官の官舎。前は宮城でお堀があります。夜になると人通りがない。国立劇場にふさわしい高級感はあるが、繁華街近くにあるパリやベルリンの国立劇場との違いはここにあります。

 土地柄の高級感は保ちながら、劇場に来る人たちとの親近感を作りたい。まず庭に幟を立てることにしました。歌舞伎には茶色と緑と黒の三色の定式幕がありますが、その中から緑色と茶色を頂いて幟を作った。見違えるように華やかになりました。劇場の廊下には赤い提灯を吊るす。宮城の前なので、庭は全部松になっていたが、桜を植えました。三島の遺伝研究所から持ってきた駿河桜ですが実に美しい。千鳥ヶ淵より一週間前に咲くので、その一週間だけ桜祭りをやる。一昨年は1万人、今年の春は2万人が来られました。桜祭りをして来ていただいた人々は劇場とも親近感ができます。

 歌舞伎役者は全部松竹が契約していて、国立劇場で歌舞伎をやろうと思うと松竹から借りないとできません。歌舞伎座と国立劇場は競争関係でもあるので、ときには微妙なこともあります。国立劇場は通し狂言と言って主役一人が最後まで頑張る。例えば昨年10月は中村吉右衛門、11月は坂田藤十郎、12月が松本幸四郎で忠臣蔵の大石内蔵助を演じました。これに対して歌舞伎座は松竹の豪華役者が揃っているので、見取りと言って4本立ての名場面集を演ずる。だから役者を見に行くのなら歌舞伎座、ストーリーを楽しむなら国立劇場へというキャッチフレーズで住み分けをしています。

 国立劇場らしい特徴を出して、お客さんも増えてきていますが、大きな泣き所があります。お客さまの7、8割は50歳60歳代以上のご婦人であることです。若いお客を増やさないと伝統芸能の将来が心配です。子育て中の若いお母さんたちのための託児所を作りました。期待どおり利用者が増えました。2年経ちましたが、けっこう利用者があります。

 私はロンドン支店長当時、取引先と食事をすると商売の話はほとんどせず、競馬やシェークスピアシアターとか、趣味の話になります。特に歌舞伎に関心がありいろいろ聞かれますが答えられない。国際交流が多くなると、日本人らしい知識を持っていないと評価されないことを痛感しました。

 歌舞伎でも文楽でも通常夜の部は午後4時半から始まる。歌舞伎はストーリーが長いので4時間半かかり、午後4時半から始めても終演は午後9時ぐらいになる。これでは仕事を持っている人は休まない限り行けない。従来も勤め帰りを狙って遅い開演を実験したのだが、失敗に終わっていました。

 私はロンドン時代の悔いがあるので「社会人のための歌舞伎入門」に挑戦しました。

 「松本幸四郎の勧進帳」という最強の出し物を用意して活動を始めました。金曜日の午後7時開演を3回組みました。経団連、経済同友会、東京商工会議所などを訪問して国際的に活躍する企業人は、日本の伝統芸能を知っているといかに有利であるかを説得しました。職員一同の頑張りで完売しました。とにかく日ごろ来ないような観客、若い男女が国立劇場へやってきて、終演後も劇場に残って日本画を観賞している。それを見ていて従業員一同も大いに感激しました。ところが、不思議なことに、次の計画はゼロなのです。

 民間企業だと他社でも成功したら真似るでしょう。厳重に注意して歌舞伎も文楽も、「社会人のための入門」シリーズを繰り返しています。



 文楽は大阪が発祥です。どこで上演しても文楽は大阪弁なのです。ところが大阪はお客さんが入らない。東京も以前は入らなかったけど、最近では大入り満員です。9月は切符が全部売り切れた。恥ずかしながら私が最初に文楽を観にいったとき、大夫さんが「うぉらうぉら・・」とやってくれるのだけど、詞章が聞き取れないのです。床本をひざの上でめくって見ている人もいる。それで、文楽に字幕を入れようと提案したのですが、住大夫師匠に叱られました。「わては50年、みんなにわかりやすいように日本語でやってきた。それを今さら字幕を入れろなんてとんでもない」。しかし、「とにかく一度試させてほしい」と説得しました。というのは、文楽は語りです。声色を使って人形の代わりにしゃべるのだがはっきり判らない。一昨年の1月から全部字幕を入れてみた。お客さんの評判は当然良いのです。昔の言葉だから音だけでは判らない。例えば「ろうそく」といったら何を連想します?僕は燃える蝋燭だと思ったら、字幕をみると「老いたる足」と書いてあるのです。とぼとぼ歩く「老足」。それなら前後の意味がわかる。

 人間国宝の住大夫さんは素晴らしい人です。あれだけ反対していたのにお客さんの反応を見て「わての負けだ」と言って下さった。字幕があったら出演せんと言っていた人も今平気な顔で出ています。

 今問題なのは能楽です。狂言はすぐに判るのだけど、能楽は難しい。言葉も難しいが、登場人物がこの世とあの世とを行き来するところがある。小野小町が骨になっていて、あの世から出てきて、昔は若かったという話とか。一字一句理解していないと、意味が判り難い。字幕を付けたいが能楽堂には写せる壁がありません。それに外国人にも判るようにしたいとすると、日本語と英語が必要です。個別の椅子の背に液晶字幕を組み込んで、英語と日本語を選択出来ないと役に立たない。何社かの液晶メーカーを呼んで見積もりを取ったのですがとても難しい仕事でした。能楽は場内が暗い。そこに明るい字幕が椅子についたら、蛍が飛んでいるようになって雰囲気が崩れる。本当に苦労しました。
 人間国宝や芸術院委員クラスの先生から、「能楽は判らなくても、なん遍か通っている間に身体で感じるのです。能楽の深みは説明をして判るものではないのです。」と忠告されました。能楽は確かに、言葉の判らないアメリカ人でも百人に一人くらいは感心します。しかし、百人に一人ではビジネスにならない。かなり冒険でしたが、2億5千万円かけ、字幕を設置して、平成18年10月1日に各国大使館員、外国人記者クラブ、日本人を招待して、披露パーティーをします。世界でも初めての試みですから、どう評価されるか心配ですが、一人でも多く能楽ファンが出来るよう心から願っています。



 話は変わりますが、日本の伝統芸能の国際競争力は大変なものです。一昨年、中村勘三郎がニューヨーク、去年、海老蔵、団十郎がパリで歌舞伎を上演しましたが、いずれも大成功でした。英語やフランス語の字幕を用意すれば必ずあたる。歌舞伎はそれだけの力がある。日本の歌舞伎座や国立劇場にも外国人のお客さんは結構いらっしゃる。

 文楽については、私は内心心配しておりました。話が古すぎて共感を呼べるのか。ところが、6月にパリに出張中、1,000人収容のコンサートホールで文楽公演に出会いました。「壷坂観音霊験記」ですが人間国宝・吉田簑助が熱演するお里・沢市を見てパリジェンヌが涙を流します。義大夫・三味線も素晴らしかったですが、夫婦の愛情物語に国境は無いと思いました。平成19年 月にパリのオペラ座で市川海老蔵、団十郎が6回興行しに行きます。パリのオペラ座は格式が高いのですが、歌舞伎は当たると自信に満ちていました。同じ月にコメディーフランセーズ(フランスの国立演劇場)で茂山千三郎が狂言を20日間やるという予定でしたが、1年延期としたそうで残念です。来年の日仏親善イヤーの催しとするためだそうです。

 日本の自然、神社仏閣の美しさは世界でも定評があります。しかし、戦後60年我々自身で随分傷つけてきました。せっかく先輩から引き継いだ文化遺産の、価値を高める運動をする必要があります。日本人の持っている清潔感や道徳意識は現在の世界水準からみれば高いものです。明治の初めに外国人を驚嘆させた日本人の生活態度あるいは社会ルールをそのまま再現することは不可能ですが、家庭、学校、社会が協力して基準を作れば必ず出来るでしょう。その上、伝統芸能の程度の高さを、外国人にもっと知ってもらう努力を重ねれば、日本という国は文化力国家だと思ってくれる可能性は十分にあると思います。軍事力や経済力でなしに、文化力でも敬意を払われる国にすることは世界平和からも意義のあることです。

 日本の伝統芸能にもいろいろな欠点があります。主君の子どもの代わりに自分の子どもの首を切って出すなんて、どう考えても不自然です。僕は藤沢周平が好きなので、藤沢周平を歌舞伎にしたい。いつまでも江戸時代の鶴屋南北、河竹黙阿弥ばかりに頼るなと言っています。もちろん「不易流行」で歌舞伎の良いところは残さないといけない。しかし新しい時代の感覚も取り込むべきでしょう。

*この講演要旨は、OFC事務局の責任で編集したものです。

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