第44回OFC講演会

演題

「最初のグローバル経済:産業革命はなぜイギリスで始まったのか」

開催日時/場所

平成26年2月4日(火)午後6時半~ /大阪大学中之島センター3F 講義室304

講師

大阪大学大学院経済学研究科 准教授 山本 千映 氏

山本 千映 氏

プロフィール

  • 1994年東北大学経済学部卒 博士(経済学、一橋大学)。
    2004年関西大学経済学部専任講師、准教授を経て、2009年より現職。
  • 専門分野はイギリス経済史。
  • 主要著書は、『西洋経済史』(共著)「労働と世帯―産業革命期イングランドの経験に即して―」
    社会経済史学会編『社会経済史学の課題と展望』所収、など。

講義風景

  • 会場風景
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講演要旨

 「イギリス産業革命」という言葉から連想される一般的なイメージは、18世紀後半になされた蒸気機関や紡績機などの発明によってイギリス経済が爆発的な成長を遂げ、19世紀の「大英帝国」を築いていったといったものではないだろうか。しかし、近年のGDP推計の結果からは、産業革命期イギリスの経済成長率は、19世紀に入っても2%以下で、とても「革命」と呼べるような急激な成長ではなかったことが明らかにされている。
 ここから、新たな疑問が生じる。産業革命終期の1830年頃の経済状況についてはおおむね合意ができているので、そこから遡って産業革命期の成長率が緩やかであったということが意味するのは、工業化開始直前の1750年頃の段階で、イギリス経済はこれまで考えられてきたよりもずっと高い発展段階にあったというものである。ではなぜ、この時期にそれが実現していたのだろうか。
 この疑問に対する解答は、さまざまな経済史家によって、今現在、さかんに議論されており、単婚核家族世帯を特徴とする世帯形成メカニズムによって、効率的な労働市場や金融市場が早期に成立していたため、とか、プロテスタンティズムの影響も含めて人的資本の蓄積(≒高い識字率)が他国に優っていたため、といった説明がなされている。この講演では、もう一つの有力な説明として、遠隔地貿易の重要性とそれによる高賃金経済の形成が、産業革命を準備したのだ、という議論が紹介された。
 15世紀に始まる大航海時代で先行したのは、1492年にイベリア半島の再征服(レコンキスタ)を完了した、新興のスペインとポルトガルであった。1453年に地中海東部のコンスタンティノープルが陥落し、陸路での東方貿易が困難になると、ヨーロッパ諸勢力は海路でのアジアルートを模索する。ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰航路(1498年)やコロンブスによる新大陸「発見」(1492年)を経て、16世紀前半には、ポルトガルが東南アジアの胡椒を海路でヨーロッパにもたらし、スペインは南米の植民地化を進め、金や銀などの大量の貴金属がヨーロッパに流入する。
 イギリスはこうした動きに遅れを取るが、スペイン・ハプスブルク家からの独立戦争を戦っていたオランダが、ポルトガルやイタリア諸都市を介さずに、16世紀末に東南アジアから胡椒を持ち帰ったことに衝撃を受け、1600年に東インド会社を設立する。当初は、ポルトガルやオランダ同様に香辛料貿易への参入を試みるが、1623年のアンボイナ事件を契機に東南アジアから撤退し、マドラスやボンベイ、カルカッタなどインド亜大陸各地に拠点を築いていく。
 イギリスの東インド貿易で重要だったのは、インドの綿織物と中国の茶であった。インド産綿布は、東インド会社の全輸入額の5割から8割を占める重要輸入品であったし、18世紀には、中国産の茶の輸入額も激増する。
 一方、北米やカリブ海地域においても、17世紀中にイギリスによる植民地化が進行する。バルバドス島やジャマイカ島では、アフリカからの黒人奴隷を使用した大規模な砂糖プランテーションが展開し、これにより、イギリス本国、西アフリカ、カリブ海諸島を頂点とする大西洋三角貿易が形成されていく。
 こうした遠隔地貿易がどれほど儲かったかについては諸説あり、時期によっても異なるが、現地と本国との間の商品価格差は、例えば、綿布の場合は4‐5倍、茶では6倍といった数値例がある。大西洋三角貿易については、極端な事例だが、1ポンドのバーミンガム製マスケット銃がアフリカで奴隷一人と交換され、西アフリカでは120ポンドほどで売れたと言われている。砂糖は2倍程度の価格差があったとされているから、単純にこれらの数値を用いて計算すると、1ポンドのマスケット銃1丁が、巡り巡って砂糖240ポンドとして売却されることになる。もっとも、傭船のための費用や大西洋を渡る際の奴隷の死亡(10%を超えたとされている)、航海中の奴隷の反乱や船舶の沈没などを考慮すると、利益率はもっとずっと小さくなるが、それでも、200%から300%の利益率はあったと考えられている。
 こうした遠隔地貿易の基地となったのは、ロンドンやブリストル、リヴァプールといった都市で、イングランドでは1750年の都市人口比率が23.2%に達していた。さらに重要なのは、西アフリカや植民地で販売された銃や農機具、ちょっとした装身具などは、都市部のみならず農村でも生産されていた点で、農村非農業人口は総人口の32.5%におよび、純粋に農業に従事していた人々の割合は、1750年の時点で5割を切っていた。
 非農業人口の増大は、都市や農村における労働市場の逼迫をもたらしたと考えられている。その結果、1750年時点のイギリスの賃金は、アジア諸地域との比較で言ってももちろんのこと、ヨーロッパの中でももっとも高い水準となった。他方で、遠隔地貿易による富は潤沢な資金供給を意味するので利子率は低く、自然条件から石炭も安価に利用可能であった。こうした外部要件に沿う形で、イギリスでは労働節約的で資本集約的かつエネルギー使用的な技術、すなわち、蒸気機関による機械制生産が選択されたのである。
 このように、大航海時代に始まる最初のグローバル化がヨーロッパ諸国、とりわけイギリスにおいて高賃金経済をもたらし、18世紀中期のイギリスで始まる産業革命を準備したという議論は、なかなか説得的だと思われる。

*この講演要旨は、OFC事務局の責任で編集したものです。

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